摂関政治
【概説】
10世紀から11世紀の平安時代中期にかけて、藤原北家が天皇の摂政や関白として政治の実権を独占した政治形態。自らの娘を天皇の后妃として入内させ、生まれた皇子を次代の天皇に据えて外祖父として権力を掌握する手法をとり、律令国家から王朝国家へと変質していく過程の政治・社会・文化を大きく規定した。
藤原北家の台頭と他氏排斥
摂関政治の端緒は、9世紀前半に藤原冬嗣が嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭に就任し、藤原北家が台頭したことに遡る。冬嗣の子である藤原良房は、858年に幼少の清和天皇を即位させ、臣下として初めて摂政に就任した。さらにその養子である藤原基経は、884年に光孝天皇を擁立し、のちに事実上の初代関白となった。摂政は天皇が幼少あるいは女性の場合に政務を代行する官職であり、関白は天皇が成人したのちに政務を補佐する官職である。
当初、摂政・関白は常置の官職ではなく、9世紀末から10世紀中頃にかけては、宇多天皇、醍醐天皇、村上天皇らによる天皇親政(延喜・天暦の治)も行われた。しかしその間も、藤原北家は応天門の変(866年)、阿衡の紛議(887年)、昌泰の変(901年)などの政争を通じて、伴氏、紀氏、さらには菅原道真といった有力な他氏族や政敵を次々と中央政界から追放していった。そして、969年の安和の変で源高明を左遷したことにより他氏排斥を完了させ、以降は藤原北家の人物が摂政・関白に常任する体制が確立した。
外戚関係と強固な経済基盤
摂関政治の最も重要な権力の源泉は、天皇との外戚関係(母方の親戚関係)であった。当時の貴族社会では、婚姻形態として妻問婚や婿取婚が一般的であり、子は母方の実家(里内裏)で養育されるのが通例であった。藤原北家はこの風習を最大限に利用し、娘を天皇に入内させて中宮(皇后)とし、生まれた皇子を自らの邸宅で手厚く育て上げ、次期天皇として即位させることで「天皇の外祖父」という絶対的な地位を築き上げた。
また、この絶大な政治権力を支える巨大な経済基盤も存在した。地方の国司(受領)たちは、自らの任期延長やより豊かな国への転任(成功・重任)を求めて、実権を握る摂関家に莫大な富を貢進した。さらに、11世紀頃から地方の開発領主たちが自らの土地の権利を守るため、権門勢家である摂関家に土地を寄進するようになり(寄進地系荘園)、摂関家は本家・領家として各地の荘園から莫大な年貢・公事などを吸い上げるシステムを構築した。
道長・頼通期の最盛期と国風文化の開花
11世紀前半の藤原道長と、その子である藤原頼通の時代に摂関政治は最盛期を迎えた。道長は、4人の娘(彰子、妍子、威子、嬉子)を次々と天皇の后妃とする「一家立三后」という前代未聞の偉業を成し遂げ、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という和歌に象徴される栄華を極めた。続く頼通も、父の権力基盤を受け継いで約50年間にわたり関白を務め、平等院鳳凰堂を建立するなど権威を示した。
この摂関政治の最盛期は、日本の風土や生活感情に根ざした国風文化が開花した時期と重なる。摂関家は、自らの娘が天皇の寵愛を受けられるよう、教養豊かで優秀な女性たちを女房として宮廷サロンに集めた。藤原道長の長女・彰子に仕えた紫式部や、藤原道隆の長女・定子に仕えた清少納言らが活躍した背景には、外戚関係の強化を狙う摂関家の熾烈な文化政策があったのである。さらに、相次ぐ疫病や社会不安のなかで、来世の極楽往生を願う浄土教が貴族層に深く浸透していったのもこの時期である。
摂関政治の限界と院政への移行
栄華を極めた摂関政治であったが、その権力構造は「天皇に男子が誕生し、かつ自らが外祖父として存命であること」という生物学的かつ偶然の要素に依存する極めて脆弱なものであった。頼通の娘には皇子が生まれず、1068年に藤原氏を外祖父に持たない後三条天皇が即位したことで、摂関家による政治の独占はついに崩壊する。後三条天皇は延久の荘園整理令(1069年)を発布し、摂関家の経済基盤にメスを入れた。
その後、後三条天皇の皇子である白河天皇が1086年に位を退いて上皇となり、天皇家の家長たる「治天の君」として実権を握る院政を開始した。これにより、政治の決定権は摂関家から上皇(院)へと移り、摂関政治は実質的な終焉を迎えた。以降、摂政・関白の職自体は鎌倉時代以降も公家の最高位として存続するものの、それはもはや名目的な権威にとどまり、実質的な国政の主導権を取り戻すことはなかった。