伴善男 (とものよしお)
811年〜868年
【概説】
平安時代前期に実務官僚として台頭し、大納言にまで上り詰めた公卿。貞観8(866)年に起きた応天門の変において政敵を陥れようとしたが、最終的に自らが放火の真犯人とされて伊豆国へと流された人物。
才覚による急速な昇進と政界の対立
伴善男は、かつて大伴氏と称した古代からの名門貴族の出身であったが、当時は勢力を衰退させていた。しかし、善男は弁舌と優れた実務能力、さらに当時の権力者であった藤原良房の信任を得ることで急速に昇進し、ついには大納言の地位にまで達した。この異例の出世は、伝統的な家柄を重んじる旧来の貴族たちの反感を買い、特に左大臣の源信(嵯峨源氏)らとの間で激しい政治的対立が生じる原因となった。
応天門の変と伴善男の失脚
貞観8(866)年閏3月、平安宮の応天門が放火により焼失する事件が発生した。善男はこれを政敵である源信の犯行であると主張し、彼を告発して失脚させようと図った。しかし、藤原良房の執り成しによって源信の無実が証明される。同年8月、備中国の官人である大宅鷹取が「伴善男とその子・中庸が応天門に放火した」と密告したことにより形勢は逆転した。善男は厳しい尋問の末に有罪とされ、死刑を免じられて伊豆国へと配流され、同地で没した。
他氏排斥と藤原氏の権力確立
この事件の背景には、単なる個人の対立にとどまらず、藤原氏による「他氏排斥」の意図があったとされる。伴善男の失脚に伴い、古くからの有力豪族であった伴氏(大伴氏)や紀氏(紀豊城など)は一挙に中央政界から一掃された。事件後、藤原良房は幼少の清和天皇を補佐する名目で、皇族以外で初となる摂政に正式に就任した。伴善男の没落は、藤原氏が他氏を排斥し、摂関政治の基礎を固めるうえでの決定的な契機となったという点で、日本政治史上きわめて重要な意味を持っている。