源信 (みなもとのまこと)
【概説】
嵯峨天皇の皇子であり、臣籍降下して源氏(嵯峨源氏)の祖となった平安時代前期の公卿。二世源氏として初めて左大臣にまで登り詰めたが、貞観8年(866年)の応天門の変において放火の濡れ衣を着せられた。藤原良房らの介入によって無実が証明されたものの、この事件は藤原氏による他氏排斥運動の契機となった。
嵯峨源氏の出自と政治的台頭
源信(みなもとのまこと)は、第52代嵯峨天皇の第七皇子として生まれた。当時、膨れ上がった皇子女を維持するための宮廷財政の逼迫が課題となっており、嵯峨天皇は多くの皇族に臣下の姓を与えて皇籍から離脱させる臣籍降下を断行した。これが日本史における「源氏」の始まり(嵯峨源氏)であり、源信はその代表的な人物である。
源信は臣下の身分となった後、優れた実務能力を発揮して朝廷内で急速に昇進した。仁明天皇や文徳天皇の信任を得て、嘉祥3年(850年)には最高権力機関である太政官のナンバーツーである左大臣に就任。藤原氏の台頭が著しい時代にあって、源氏の重鎮として朝廷の政務をリードする存在となった。
応天門の変と免罪、その歴史的影響
貞観8年(866年)閏3月、平安京の朝堂院の正門である応天門が火災によって焼失した。この大事件に際し、大納言であった伴善男(とものよしお)は、日頃から政治的に対立していた左大臣の源信を放火の首謀者として告発した。この讒言(ざんげん)により、源信の邸宅はただちに朝廷の兵によって囲まれ、一時は逮捕寸前の窮地に陥った。
しかし、時の右大臣・藤原良房が清和天皇に対して、慎重な取り調べを行うよう進言したことで事態は一変する。その後、伴善男の従者による密告などから、事件は伴善男とその一族による自作自演の陰謀であったことが判明した。これにより源信の無罪は立証され、伴善男は流罪に処されることとなった。
この「応天門の変」において、源信は辛くも免罪されたものの、精神的な打撃を受けてこれ以降は政務の一線から退いた。結果として、ライバルである伴氏を排除し、源信をも無力化することに成功した藤原良房が、臣下として初めての摂政に就任することとなり、その後の摂関政治の基礎が確立されることとなった。