橘広相 (たちばなのひろみ)
【概説】
平安時代前期の貴族・学者であり、宇多天皇の側近として活動した人物。藤原基経を関白に任じる詔書(勅書)を起草したが、文中の「阿衡」という表現が基経の反発を招き、政治問題(阿衡の紛糾)に発展した。
学者としての台頭と宇多天皇の信任
橘広相は平安時代前期の文人貴族であり、橘氏の出身である。文章博士などを歴任し、その優れた学識から光孝天皇の信任を得て、皇子である源定省(後の宇多天皇)の侍読(学問を講じる家庭教師役)を務めた。さらに、自身の娘である橘義子を宇多天皇の女御とし、皇子をもうけるなど、皇室との結びつきを急速に強めていった。
887年に光孝天皇が崩御し、宇多天皇が即位すると、天皇は親政(天皇自らが政治を行うこと)を志向し、藤原氏への牽制も含めて学問的師である広相を自らの側近として重用しようとした。これが、藤原氏の長者である藤原基経との対立の伏線となった。
阿衡の紛糾と失意の晩年
宇多天皇の即位直後、基経を関白に任じる詔書を広相が起草した。その詔書の中に「宜しく阿衡の任を以て補うべし」という一節があった。「阿衡」とは中国の古代王朝(殷)の賢臣・伊尹が称された官名であり、最高の補佐官を意味する敬意を込めた表現であった。しかし、基経の配下であった学者・藤原佐世らが「阿衡には地位はあるが実権(職掌)がない」と基経に耳打ちしたことで事態は一変する。
激怒した基経は一切の政務を放棄し、数ヶ月にわたって国政が停滞する事態へと発展した。これを阿衡の紛糾(阿衡の事件)と呼ぶ。追い込まれた宇多天皇は広相を庇うことができず、最終的に詔書を撤回し、広相を罷免する方針を固めざるを得なくなった。その後、菅原道真の執成しなどもあり広相への処罰は立ち消えとなったが、精神的打撃を受けた広相は失意のうちに、事件の翌々年である890年に病没した。この事件は、天皇の側近であっても摂関家(藤原氏)の権威には抗えないという現実を浮き彫りにした。