阿衡の紛議(阿衡事件)

宇多天皇が藤原基経に関白の辞令を出した際、詔書の「阿衡」という語句に基経が怒って政務を放棄し、起草者が処罰された事件は何か。
カテゴリ:
重要度
★★

【参考リンク】
阿衡事件(Wikipedia)

阿衡の紛議(阿衡事件) (あこうのふんぎ / あこうじけん)

887年〜888年

【概説】
平安時代前期、宇多天皇が出した詔書をめぐり、関白の藤原基経が抗議して政務を放棄した政治事件。詔書を起草した橘広相が用いた「阿衡」という中国の官名が、実権のない名誉職を意味するとして基経の怒りを買った。天皇が詔書を撤回したことで事態は収束したが、藤原氏の権勢が天皇を圧倒していることを世に知らしめる結果となった。

事件の背景:宇多天皇の即位と「阿衡」の詔

仁和3(887)年、光孝天皇の崩御に伴って宇多天皇が即位した。宇多天皇は一度臣籍に降下して源氏となっていたが、太政大臣の藤原基経の強力な後押しによって皇籍に復帰し、即位を遂げた経緯があった。そのため、宇多天皇は即位直後に基経に対して国政の全権を委ねるべく、「万機を関白せしむ」との詔(みことのり)を下した。これに対し、基経が謙譲の意を示して形式的に辞退したため、天皇は学者である橘広相(たちばなのひろみ)に命じて再び詔書を起草させた。しかし、この二度目の詔書に盛り込まれた「宜しく阿衡の任を以て、朕の卿とせん」という表現が、大きな政治闘争を引き起こす引き金となった。

紛議の展開:藤原基経のボイコットと朝廷の麻痺

「阿衡」とは、古代中国の殷の賢臣・伊尹(いいん)が就いた官職に由来する美称であった。しかし、基経の学者ブレーンであった文章博士の藤原佐世(ふじわらのすけよ)らは、「阿衡は位は高いが職掌(実権)を持たない名誉職である」と基経に吹き込んだ。これを自身を国政から排除する意図と受け取った基経は激怒し、関白としての政務を一切放棄して自邸に引きこもってしまった。摂関家の筆頭たる基経のボイコットにより、朝廷の行政機能は半年以上にわたって完全に麻痺することとなった。宇多天皇は自身の本意ではないことを釈明したが、基経の怒りは収まらず、起草者である橘広相を罪に問う声が高まった。

解決と歴史的意義:藤原氏の権威確立と「寛平の治」への伏線

宇多天皇は側近の橘広相を熱心に庇護したが、基経の硬化姿勢を崩すことはできなかった。当時、新進気鋭の学者であった菅原道真が基経に対して「これ以上天皇を困らせるべきではない」とする書状(奉書)を送ったことなどもあり、最終的に基経も態度を軟化させた。しかし結果として、宇多天皇は詔書を撤回し、橘広相を罷免(のちに罪を免除)せざるを得なかった。この事件は、天皇の権威をも凌駕する藤原氏(摂関家)の権力を決定づけるものとなった。しかし、この敗北に深く傷ついた宇多天皇は、寛平3(891)年に基経が没するとその後継者を関白に就けず、菅原道真らを登用して親政を行う寛平の治(かんぴょうのち)へと移行し、藤原氏の抑制に努めることとなる。

宇多天皇の日記を読む 天皇自身が記した皇位継承と政争 (日記で読む日本史)

宇多天皇の直筆から当時の朝廷における緊迫した政争と皇位継承の深淵に迫る、歴史の舞台裏を解き明かす一冊。

平安時代史事典 CD‐ROM版 ((Win版))

平安時代の政治や文化、社会情勢の全貌を網羅的に収録した、研究者や歴史愛好家必携のデータベース資料の決定版。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 後醍醐天皇が理想とし、建武の新政で実践しようとした、天皇自身が直接政治を行う体制を何というか?
Q. 武田信玄が甲斐国の治水事業として、釜無川の氾濫を防ぐために築いたとされる堤防群を何というか?
Q. 日本の紡績資本が、中国の安い労働力と豊かな市場を狙って、上海などの中国国内に直接建設した紡績工場(企業)の総称を何というか?