国後島・択捉島

北方領土4島のうち、歯舞・色丹と異なり、ソ連側が日ソ共同宣言の段階で返還に応じず領有権の対立が続いた2つの島はどこか?
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重要度
★★

【参考リンク】
北方地域(Wikipedia)

国後島・択捉島 (くにしりとう・えとろふとう)

【概説】
北海道の北東に位置する千島列島南部の二つの島。1855年の日露通好条約によって日本領として確定したが、第二次世界大戦末期にソ連軍によって占領された。1956年の日ソ共同宣言においてもソ連側が返還を拒否し、現在も日本政府が「北方領土」として返還を強く求めている地域である。

歴史的画定と日本固有の領土としての位置づけ

国後島と択捉島は、江戸時代から松前藩や江戸幕府による開拓・実効支配が進められていた地域であった。1855年、日本とロシア帝国の間で締結された日露通好条約(下田条約)において、両国の国境は択捉島と得撫(ウルップ)島の間と定められた。これにより、国後島と択捉島(および歯舞群島・色丹島)は、一度も外国の領土となったことがない「日本固有の領土」として国際的に画定された。

その後、1875年の樺太・千島交換条約によって千島列島全域が日本領となったが、国後島と択捉島については、それ以前の段階から平穏かつ継続的に日本の主権下に置かれていたという歴史的経緯を持つ。

第二次世界大戦末期のソ連占領とサンフランシスコ平和条約

1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾した直後、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)はヤルタ密約を背景に千島列島への侵攻を開始した。同年9月までに国後島・択捉島を含む北方四島はすべてソ連軍に占領され、当時の日本人島民は強制的に退去させられた。日本政府は、この占領を国際法上の根拠を欠く不法占拠であると主張している。

1951年に署名されたサンフランシスコ平和条約において、日本は「千島列島」に対するすべての権利・権原・請求権を放棄した。しかし、ここで放棄された「千島列島」に国後島と択捉島が含まれるか否かが、その後の大きな外交的争点となった。日本政府は、この二島は条約で放棄した「千島列島」には含まれず、日本が主権を有する領土であるとの見解を維持している。

日ソ共同宣言における対立と現代への課題

1956年、鳩山一郎内閣のもとで国交回復を目指して結ばれた日ソ共同宣言においては、領土問題が最大の焦点となった。ソ連側は、平和条約締結後に比較的規模の小さい歯舞群島・色丹島の二島を日本に引き渡すことには同意した。しかし、面積が極めて広く戦略的要衝でもある国後島・択捉島の二島については返還を頑なに拒み、領土問題は事実上棚上げされる形となった。

日本政府は、国後島・択捉島を含む「北方四島の一括返還」を基本方針としたため、ソ連(現ロシア)との間で正式な平和条約は締結されないまま今日に至っている。冷戦終結後も、ロシアによる実効支配の強化や軍事拠点化が進んでおり、この二島をめぐる領土問題は、戦後日本外交における未解決の最重要課題であり続けている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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