日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)
【概説】
1960年(昭和35年)に岸信介内閣の下で調印・発効した、日本とアメリカ合衆国との間の新たな安全保障条約。1951年締結の旧安保条約を改定したもので、日本に対するアメリカの共同防衛義務や、米軍の軍事行動に関する事前協議制などを明記し、日米同盟をより双務的な関係へと再構築した条約である。
旧安保条約の課題と改定への道程
1951年(昭和26年)、サンフランシスコ平和条約と同時に結ばれた旧日米安全保障条約は、日本が独立を回復する条件として米軍の駐留継続を認めるものであった。しかし、この条約はアメリカ軍の日本駐留権を認める一方で、アメリカに対する日本の防衛義務が明記されておらず、さらに日本の国内暴動に対して米軍が出動できるという内乱条項が含まれるなど、極めて片務的で日本にとって不平等な性格を持っていた。
1950年代後半に入り、日本の経済が復興し国際社会への復帰を果たすと、この不平等な安保体制の見直しを求める世論が高まった。1957年に首相に就任した岸信介は、「対米自主」の姿勢を打ち出し、条約の改定による日米関係の対等化を最重要の政治課題として位置づけた。岸首相は数度にわたる訪米を通じて交渉を重ね、1960年1月、ワシントンにおいてアイゼンハワー大統領との間で新条約の調印にこぎつけた。
新安保条約の主な内容と特徴
新しく結ばれた日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)は、旧条約の片務性を解消し、双務性を高めるためのさまざまな取り決めがなされた。その最大のポイントは、条約第5条において、日本国の施政下にある領域への武力攻撃に対し、日米両国が共同して防衛にあたる義務(アメリカの日本防衛義務)を明記したことである。
また、日本国内の米軍の配置や装備の重要な変更(核兵器の持ち込みなど)、および日本から出撃する軍事作戦行動については、両国政府間で事前に話し合うとする事前協議制が交換公文によって導入された。さらに、国民の反発が強かった内乱条項は削除され、条約の有効期間は10年と定められ、その後は1年前の通告により破棄できるという規定(自動延長方式)が設けられた。
未曾有の大衆運動「安保闘争」の激化
新安保条約は日米関係の対等化を目指したものであったが、国内では激しい反発を引き起こした。日本社会党や日本共産党などの革新政党、総評(日本労働組合総評議会)、全学連(全日本学生自治会総連合)を中心とする反対派は、新条約における共同防衛の規定が、冷戦下でアメリカが展開する反共の世界戦略に日本を深く巻き込み、再び日本が戦争の危機に直面すると主張し、大規模な反対運動を展開した。これが安保闘争である。
事態が決定的に悪化したのは、1960年5月19日未明のことであった。岸内閣が警官隊を国会内に導入し、衆議院本会議で新安保条約の承認を強行採決したことで、運動は「民主主義の擁護」を掲げる一般市民や知識人をも巻き込む空前の大衆運動へと発展した。連日、数十万人のデモ隊が国会議事堂を取り囲み、6月15日にはデモ隊と警官隊の衝突で東京大学の女子学生(樺美智子)が死亡する痛ましい事件も発生した。これにより、予定されていたアイゼンハワー大統領の来日も中止に追い込まれた。
新条約の成立と歴史的意義
国会周辺が騒然たる状況のなか、新安保条約は参議院での議決を経ないまま、衆議院通過から30日後の1960年6月19日に自然成立した。岸内閣は条約の批准書交換を見届けた後、国内の混乱を招いた責任をとって総辞職した。
新安保体制の成立は、日本外交と内政における大きな転換点となった。激しい対立を生んだ「政治の季節」は終わりを告げ、後を継いだ池田勇人内閣は「寛容と忍耐」を掲げて国民所得倍増計画を打ち出し、国民の関心を経済成長へと向けさせた。一方で、新安保条約は冷戦体制下における日米同盟の確固たる基盤となり、その後の日本の安全保障政策や外交の絶対的な基軸として機能し続けることとなったのである。