日本原子力発電東海発電所 (にほんげんしりょくはつでんとうかいはつでんしょ)
【概説】
1966年に茨城県那珂郡東海村で操業を開始した、日本初の商業用(営業用)原子力発電所。イギリスのコールダーホール改良型原子炉を導入し、日本における「原子力の平和利用」の先駆的な役割を果たした歴史的施設である。
原子力平和利用の国策化と東海村の選定
太平洋戦争の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって原子力の研究開発を全面的に禁止されていた日本は、1952年の主権回復(サンフランシスコ平和条約発効)を経て開発への道を模索し始めた。1954年には改進党の中曽根康弘らによって初の原子力予算が国会に提出され、翌1955年には原子力基本法が制定される。これにより「民主・自主・公開」の原則のもと、原子力の平和利用が国策として推進されることとなった。研究拠点として茨城県那珂郡東海村に日本原子力研究所(原研)が設立され、これに続く初の商業用発電を担う民間・政府共同出資の母体として、1957年に「日本原子力発電株式会社」が設立された。
英国型原子炉の導入と技術的挑戦
日本初の商業用原発として建設が計画された東海発電所には、イギリスで稼働実績のあったコールダーホール型炉(炭酸ガス冷却型・黒鉛減速炉)が導入されることとなった。この炉は、濃縮ウランではなく天然ウランを燃料として使用できる点が、当時の日本の技術水準や核燃料調達能力に適していた。しかし、地震国である日本への導入にあたっては、耐震性の確保や炭酸ガスの漏洩対策など、独自の厳しい安全対策と大幅な技術改良が必要とされた。数々の技術的・資金的困難を乗り越え、1965年に初臨界(持続的な核分裂連鎖反応)に達し、翌1966年7月25日に日本初の商業用原子力発電として送電を開始した。
高度経済成長期のエネルギー政策と廃炉への道
東海発電所の稼働は、当時の日本が迎えていた高度経済成長における爆発的な電力需要を支える、新たなエネルギー源の誕生を象徴する出来事であった。これ以降、日本の原子力発電は、アメリカから技術導入された軽水炉(沸騰水型や加圧水型)が主流となり、全国的な電源開発が急速に進むこととなる。そのパイオニアとなった東海発電所は、約32年間にわたり安定した電力供給を続け、日本の近代産業の発展に貢献した。その後、設備の老朽化や経済性の観点から1998年に運転を終了(計画停止)し、日本国内初の商業用原発としての役目を終えた。現在は、日本における商業用原子力発電所の本格的な廃炉(デコミッショニング)の先駆的モデルとして、長期にわたる解体・撤去作業が進められている。