ネルー
【概説】
インド独立運動の指導者であり、1947年に独立したインド連邦の初代首相。冷戦期において米ソのいずれの陣営にも属さない「非同盟中立」を提唱し、アジア・アフリカ諸国の連帯を牽引した現代アジアを代表する政治指導者。
「平和五原則」の提唱とアジア・アフリカ会議
ネルーは、マハトマ・ガンディーとともにインド国民会議派の指導者としてイギリスからの独立運動を推進し、独立後は首相兼外務大臣として長期にわたり指導的地位にあった。東西冷戦が激化する中で、彼は一貫して非同盟・平和共存の外交路線を歩んだ。その画期となったのが、1954年に中国の首相・周恩来との共同声明で発表された「平和五原則」(領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)である。この原則は、翌1955年にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)における「平和十原則」へと発展し、植民地支配から脱した第三世界の連帯を示す重要な多国間協調の道標となった。
戦後日本との関係と「日印平和条約」の締結
日本の昭和史(戦後外交史)において、ネルーは日本の国際社会復帰を温かく支持した指導者として深く関わっている。インドは1951年のサンフランシスコ平和条約について、冷戦下で日本に様々な制約(主権の制限や米軍の駐留など)を課すものであるとして調印を拒否した。しかしこれは日本への敵対ではなく、むしろ日本の完全な主権と独立を尊重すべきだというネルーの信念に基づいていた。翌1952年、インドは日本と個別の日印平和条約を締結し、賠償請求権を自主的に放棄して国交を樹立した。これは日本にとって戦後初の二国間平和条約であり、アジア諸国との国交回復および国際社会への再加盟に向けた大きな足がかりとなった。
アジア主義の思想と「ネルー・ブーム」
ネルーのアジア主義は、長年の植民地支配から脱したアジア諸国が互いに手を取り合い、西欧大国の支配や冷戦対立に巻き込まれない自立した地域を形成することを目指すものであった。極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表のラダ・ビノード・パル判事が国際法上の観点から共同謀議などの罪状を否定し、被告全員の無罪を主張する意見書を提出した背景にも、ネルーが抱く「復讐なき和解とアジアの融和」という政治姿勢が根底にあったとされる。1957年にネルーが首相として初来日した際には、戦後復興の途上にあった日本国内で熱烈な歓迎を受け、一種の「ネルー・ブーム」が巻き起こった。これは、戦後日本がアジアの一員としてのアイデンティティを再認識する契機ともなった。