田中角栄内閣
【概説】
1972年7月から1974年12月まで続いた、田中角栄を内閣総理大臣とする自由民主党政権。就任直後に日中国交正常化という歴史的偉業を実現し、内政では「日本列島改造論」を掲げて国土開発を推進したが、石油危機による異常なインフレ(狂乱物価)と自身の金脈問題に対する批判が高まり、総辞職に追い込まれた。
「庶民宰相」の誕生と角福戦争
1972年、7年8ヶ月という長期政権を維持した佐藤栄作が退陣を表明すると、後継の座を巡って田中角栄と福田赳夫が激しく争う、いわゆる「角福戦争」が勃発した。東京帝国大学から大蔵省というエリートコースを歩んだ福田に対し、高等小学校卒業後に土建業から身を立てた田中は対照的な存在であった。激しい派閥抗争の末に自民党総裁選を制して首相に就任した田中は、その類まれな立身出世の経歴から「今太閤」や「コンピューター付きブルドーザー」と称された。エリート政治家とは一線を画す「庶民宰相」として組閣直後の内閣支持率は60%を超え、国民から熱狂的な歓迎を受けた。
日中国交正常化の歴史的偉業
田中内閣の最大の外交的成果は、日中国交正常化の実現である。1971年のニクソン訪中発表(ニクソン・ショック)により、同盟国であるアメリカが中華人民共和国との関係改善に動いたことを受け、日本も長年の課題であった対中政策の抜本的な転換を迫られていた。
田中は就任直後の1972年9月に電撃的に北京を訪問し、周恩来首相や毛沢東主席と歴史的な首脳会談を行った。その結果、日中共同声明に調印し、日本は中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認した。これにより日中間の戦争状態の終結と国交樹立が成し遂げられたが、同時に中華民国(台湾)との間に結ばれていた日華平和条約は終了し、日本は台湾と断交することとなった。
「日本列島改造論」と狂乱物価の発生
内政面では、田中の著書『日本列島改造論』に基づく大規模な国土開発が推進された。これは新幹線や高速道路などの高速交通網を全国に張り巡らせて工業の地方分散を促進し、都市の過密と地方の過疎という高度経済成長のひずみを同時に解消しようとする壮大な構想であった。
しかし、開発への過度な期待から全国規模で投機的な土地の買い占めが起こり、深刻な地価の高騰を招いてしまう。さらに1973年秋、第4次中東戦争の勃発に伴う第1次石油危機(オイルショック)が発生すると、原油価格の高騰が物価の急上昇に拍車をかけた。店頭からトイレットペーパーや洗剤が消える買い占め騒動が起きるなど、日本社会は「狂乱物価」と呼ばれる異常なインフレに見舞われ、1950年代半ばから続いた戦後の高度経済成長期はここで終焉を迎えることとなった。
金脈問題による退陣とその後
インフレ抑制のために政府は総需要抑制策をとり、国民生活安定緊急措置法などを制定して事態の収拾を図ったが、経済の混乱は内閣支持率の急落を招いた。そのような中、1974年10月に発売された雑誌『文藝春秋』において、ジャーナリストの立花隆らによるルポルタージュ「田中角栄研究―その金脈と人脈」が掲載された。
この記事により、田中のファミリー企業やペーパーカンパニーを利用した不透明な政治資金の錬金術が白日の下に晒された。野党のみならず世論やマスコミからも激しい批判を浴びた田中は、国会での追及を乗り切ることができず、同年12月に退陣を余儀なくされた(後継は「クリーン三木」を掲げた三木武夫内閣)。田中は退陣後の1976年、米国の航空機売り込みを巡る大規模な汚職事件(ロッキード事件)で逮捕されるが、その後も自民党最大派閥の領袖として政界に君臨し続け、「闇将軍」として日本の政治に絶大な影響力を行使することとなる。