イラン革命

1979年、ホメイニの指導によって王政が打倒され、厳格なイスラム教に基づく共和国が樹立された中東の革命を何というか?
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★★

【参考リンク】
イラン革命(Wikipedia)

イラン革命

1979年

【概説】
1979年にイランで発生した、親米のパフラヴィー王政が打倒され、イスラム指導者ホメイニを最高指導者とする神権政治体制が樹立された革命。中東の国際秩序を激変させただけでなく、世界的な第二次オイルショックを誘発した。昭和後期の日本におけるエネルギー政策や対中東外交のあり方に決定的な影響を与えた大事件である。

パフラヴィー体制の崩壊とイスラム共和国の誕生

第二次世界大戦後のイランでは、皇帝(シャー)であるパフラヴィー2世のもとで、西欧化と近代化を急速に進める「白色革命」が推進されていた。この政策はアメリカの強い支援を受けた親米路線であったが、急進的な工業化は貧富の格差を拡大させ、伝統的なイスラム社会の紐帯を破壊した。また、秘密警察を用いた開発独裁への反発も強まっていた。

こうした状況下、国外亡命を余儀なくされていたシーア派の最高指導者ホメイニが民衆の抵抗運動を指導。1979年1月、パフラヴィー2世は国外へ逃亡し、2月に帰国したホメイニによって「イスラム共和国」の樹立が宣言された。この革命は、西欧的な近代化モデルに対抗し、イスラム法(シャリーア)に基づく国家を構築するという、現代史における極めて特異な政治変革であった。

第二次オイルショックと日本経済への影響

イラン革命は、日本をはじめとする先進工業国に甚大な経済的打撃を与えた。革命による混乱と石油生産の停止は、原油価格の暴騰を招き、第二次オイルショック(石油危機)を引き起こした。さらに翌1980年にはイラン・イラク戦争が勃発し、原油供給への不安は長期化することとなる。

1973年の第一次石油危機からようやく立ち直りつつあった日本(当時は大平正芳内閣)は、再び激しいインフレの懸念に直面した。しかし、第一次の教訓から、日本政府および産業界は省エネルギー対策の徹底、石油代替エネルギー(原子力や天然ガス)の開発、自動車やエレクトロニクス産業に見られるような知識集約型・ハイテク産業への構造転換を急速に進めた。結果として、日本はこの危機を他の主要国よりも早期に乗り越え、強固な安定成長期へと移行する契機となった。

戦後日本外交が直面した「中東のジレンマ」

イラン革命は、日本の戦後外交にとっても重大な試練となった。イランは日本にとって最大の原油調達国の一つであり、官民合同の巨大プロジェクトである「イラン・ジャパン石油化学(IJPC)」事業が進行中であった。しかし、革命後の1979年11月に発生したイランアメリカ大使館人質事件を機に、日米イランの三者関係は極めて緊迫した。

アメリカが対イラン制裁を科し、同盟国である日本にも同調を求めたのに対し、日本政府は独自のエネルギー資源確保の観点からイランとの対話維持を模索した。この「日米同盟の維持」と「自主的な資源外交」の狭間でのジレンマは、その後の日本の中東政策における基本的な制約要因となり、緊迫する中東情勢の中で二国間関係をいかに維持するかという重い課題を残すこととなった。

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イラン現代史-イスラーム革命から核問題、対イスラエル戦争まで (中公新書 2882)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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