宮沢喜一内閣
【概説】
海部俊樹内閣の後を受けて1991年11月に発足した、昭和一桁世代の「保守本流」の精鋭と目された宮沢喜一による内閣。冷戦終結後の国際情勢に対応してPKO(国連平和維持活動)協力法を成立させ、自衛隊の本格的な海外派遣を実現した。しかし、相次ぐ政治不信の中で進められた政治改革をめぐって自民党内が分裂し、1955年以来続いた「55年体制」を終焉させる契機となった。
冷戦後の国際貢献とPKO協力法の成立
宮沢喜一内閣が発足した1991年は、ソ連の崩壊などにより東西冷戦が終結し、国際秩序が激変した時期であった。これに先立つ湾岸戦争(1991年)において、日本政府は多額の資金援助(130億ドル)を行いながらも「資金のみによる貢献」として国際社会から厳しい批判を浴びていた。この苦い経験を踏まえ、宮沢内閣は人的な国際貢献の枠組み作りを急いだ。
1992年6月、野党の強い反発や社会党などによる牛歩戦術を乗り越え、国際平和協力法(PKO協力法)が成立した。これにより、自衛隊の海外派遣に関する法的な整備がなされ、同年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)への自衛隊派遣が実現した。これは戦後日本の安全保障政策・防衛政策の大きな転換点となった。
政治不信の激化と経済危機の端緒
内政においては、バブル経済の崩壊が本格化し、宮沢内閣は景気後退への対応を迫られた。総合経済対策などの財政出動を試みたものの、バブル崩壊による経済の痛手は予想以上に深く、のちに「失われた10年(あるいは20年)」と呼ばれる長期停滞の入り口となった。
これに加えて、政界は激しい政治不信の渦中にあった。リクルート事件の余波が冷めやらぬ中、1992年には東京佐川急便事件が発覚し、自民党の「キングメーカー」であった金丸信が副総裁を辞任、のちに略式起訴されたことで国民の怒りは頂点に達した。金銭まみれの政治構造を改めるため、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制への移行を柱とする「政治改革」が最大の政治課題となった。
「嘘つき解散」と55年体制の崩壊
宮沢首相はテレビ番組などで「今国会で政治改革を必ず実現する」と国民に公約したが、自民党内の守旧派の猛烈な抵抗にあい、法案成立を断念せざるを得なくなった。この姿勢に対し、野党は宮沢の「政治改革不実行」を理由に内閣不信任決議案を提出した。
自民党内部で政治改革を強く訴えていた小沢一郎や羽田孜らのグループ(改革フォーラム21)は、不信任案に賛成することを決定した。1993年6月18日、自民党から多数の造反者が出たことにより内閣不信任案が可決され、宮沢は衆議院を解散した(いわゆる「嘘つき解散」または「ハプニング解散」)。
解散後、羽田や小沢らは自民党を離党して「新生党」を結成し、武村正義らも離党して「新党さきがけ」を結成した。1993年7月に行われた第40回衆議院議員総選挙において、自民党は過半数を大きく割り込み、日本新党などの新党群が躍進した。この結果、日本新党の細川護熙を首相とする非自民・非共産8会派による連立政権が誕生し、宮沢内閣は総辞職した。これにより、1955年から約38年間にわたって一貫して自民党が政権を維持し続けた「55年体制」は名実ともに崩壊したのである。