拉致問題 (らちもんだい)
【概説】
1970年代から80年代にかけて、北朝鮮の工作員によって多数の日本人が秘密裏に不法に連れ去られた重大な国家犯罪。長らく真相が不明であったが、2002年の日朝首脳会談で北朝鮮側が関与を認め一部の被害者が帰国したものの、現在も未解決となっている重大な人権侵害および主権侵害事件である。
冷戦下の東アジアと事件の背景
1970年代から1980年代にかけて、日本各地の沿岸部や海外において、日本人が忽然と姿を消す不自然な失踪事件が相次いで発生した。これらは当初、一般的な行方不明事件として扱われていたが、その背後には北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の工作機関による国家ぐるみの犯罪が存在していた。冷戦下の当時、北朝鮮は韓国(大韓民国)の体制転覆や赤化統一を目指し、多数の工作員を密入国させていた。日本人拉致の主な目的は、工作員が韓国や他国へ潜入する際に日本人の身分を完全に偽装(背乗り)するためのパスポートを獲得することや、工作員に日本語や日本の風習を教育するための教官役として日本人を利用することであった。
疑惑の表面化と家族の闘い
個別の失踪事件が単なる行方不明ではなく「拉致」として結びつき始めたのは、1987年に発生した大韓航空機爆破事件が大きな契機である。この事件の実行犯である北朝鮮工作員の金賢姫(キム・ヒョンヒ)が、「李恩恵(リ・ウネ)」と呼ばれる日本人女性(後に田口八重子と認定)から日本語教育を受けたと供述したことで、北朝鮮による日本人拉致疑惑が一気に国際的な関心を集めた。1990年代に入ると、亡命した元工作員の証言などから疑惑は確信へと変わり、1997年には被害者の親族によって「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会(家族会)」が結成され、日本政府や社会に対する強力な救出運動が展開された。日本政府もこれを主権に対する重大な侵害と認定し、国会や外交の場で公式に取り上げるようになった。
2002年の日朝首脳会談と一部帰国
事態が劇的に動いたのは、2002(平成14)年9月17日である。当時の小泉純一郎首相が日本の首相として初めて平壌を訪問し、第1回日朝首脳会談が実現した。この会談で北朝鮮の金正日国防委員長は、長年否定し続けてきた日本人拉致の事実を一部の工作員による「行き過ぎた英雄主義」として公式に認め、謝罪した。同年10月には拉致被害者5名が24年ぶりに日本への帰国を果たした。日朝両国は国交正常化交渉の再開や経済協力を盛り込んだ日朝平壌宣言に署名したが、北朝鮮側は安否不明の他の被害者について「8名死亡、その他の者は入国せず」とする不自然で矛盾に満ちた報告を行った。さらに、日本側が独自のDNA鑑定等で提出された遺骨の虚偽を突き止めたこともあり、日本国内では北朝鮮への不信感と反発が爆発し、国交正常化交渉は事実上頓挫することとなった。
国家主権の侵害と未解決の戦後史
拉致問題は、平時の日本において外国の国家機関が秘密裏に侵入し、罪のない国民の自由と未来を不法に奪い去った前代未聞の国家犯罪(主権侵害・人権侵害)である。日本政府は現在、17名を公式な拉致被害者として認定しているが、特定失踪者と呼ばれる拉致の疑いが濃厚な人々は数百名規模に上るとされる。平成から令和へと時代が移り変わる中、被害者やその家族の高齢化が進行しており、救出に向けた時間的な猶予は失われつつある。また、北朝鮮の核兵器・弾道ミサイル開発問題と複雑に絡み合っているため、日本独自の外交交渉だけでなく、アメリカをはじめとする国際社会と連携した圧力と対話の模索が続いている。拉致問題の完全な解決は、冷戦後も分断が続く東アジアの安全保障上の課題であるとともに、日本の戦後処理における最大の「未解決問題」として重くのしかかっている。