チャーチル
【概説】
第二次世界大戦中にイギリスの首相を務め、ナチス・ドイツに対する徹底抗戦を主導した政治家。太平洋戦争においては日本と激しく敵対し、連合国の指導者として日本の無条件降伏要求や戦後の国際秩序形成に多大な影響を与えた。
対独徹底抗戦と対日戦の勃発
1940年、ナチス・ドイツの電撃的な侵攻によるヨーロッパの危機的状況の中で、宥和政策をとっていたチェンバレンの後を継いでイギリスの首相に就任した。チャーチルは卓越した演説によって国民を鼓舞し、過酷な本土防空戦(バトル・オブ・ブリテン)を耐え抜き、強硬な反独抗戦を指導した。
一方、アジア・太平洋地域においては日本との関係が決定的に悪化していた。1941年12月、日本軍がイギリスの植民地であるマレー半島に上陸(マレー作戦)し、同時にアメリカのハワイ真珠湾を攻撃したことで太平洋戦争が勃発し、日英は全面的な交戦状態に突入した。直後のマレー沖海戦でイギリスが誇る最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズなどが日本海軍の航空機によって撃沈され、さらに1942年2月には難攻不落とされた極東最大の軍事拠点シンガポールが陥落した。チャーチルはこれを「英国軍の歴史上最悪の災厄」と呼んで大いに嘆き、この敗北はアジアにおける大英帝国、ひいては欧米列強による植民地支配の権威を大きく失墜させる歴史的転換点となった。
連合国首脳としての対日戦略と戦後処理
チャーチルはアメリカのローズヴェルト大統領と緊密な関係を築き、1941年8月には大西洋上で会談して戦後構想である大西洋憲章を発表した。これは後に連合国共同宣言へと結実し、日本の降伏後に成立する国際連合の理念的基礎となった。
対日戦争の末期、チャーチルは連合国首脳会議に次々と出席し、日本の運命を決定づける外交戦を展開した。1943年11月のカイロ会談では、ローズヴェルトや中華民国の蔣介石とともに日本の無条件降伏や満州・台湾の返還を求めるカイロ宣言を取りまとめた。1945年2月のヤルタ会談では、ドイツの戦後処理を協議するとともに、ソ連のスターリンによる対日参戦の密約を容認した。
同年7月、ドイツ降伏後のベルリン近郊で開催されたポツダム会談にも出席し、対日降伏要求であるポツダム宣言の草案協議に参加した。しかし、会談期間中に行われたイギリス総選挙で保守党が敗北したため、チャーチルは首相の座を退き、宣言文の最終的な合意と署名は後任のクレメント・アトリー新首相に引き継がれた。
冷戦の幕開けと戦後日本への影響
首相退任後の1946年3月、アメリカのフルトンで行った演説において、ソ連の覇権主義を批判して「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、大陸を横切って鉄のカーテンが降ろされた」と述べた。この発言は、その後の冷戦(東西対立)の公式な幕開けを告げるものとして歴史的に極めて重要である。
このチャーチルが予見し、自ら名付けた冷戦構造は、戦後日本の運命に決定的な影響を与えた。東アジアにおける共産主義の脅威に対抗するため、アメリカは日本の非軍事化・民主化を中心とする初期の占領政策を大転換(逆コース)させ、日本の経済復興と再軍備を推進することとなった。チャーチル自身も1951年にふたたび首相として再登板し、サンフランシスコ平和条約によって独立を回復した日本が、冷戦下の西側陣営に組み込まれながら国際社会へ復帰していく過程を見届けることとなった。