朝鮮人の徴兵

1944年、兵力不足を補うために日本政府が志願制から切り替え、植民地であった朝鮮の人々に対して強制的に兵役を課した政策を何というか?
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重要度
★★

朝鮮人の徴兵 (ちょうせんじんのちょうへい)

1944年

【概説】
太平洋戦争末期の1944年、深刻な兵力不足に直面した日本政府が、植民地支配下の朝鮮の青年たちに対して兵役義務を課した政策。それまでの「志願兵制度」から強制的な「徴兵制度」へと移行し、多くの朝鮮人青年が戦場へと動員された。この政策は、植民地支配における皇民化政策の極限を示すとともに、戦後も続く補償問題などの深刻な傷跡を残すこととなった。

志願兵制度から「徴兵」への大転換

1910年の韓国併合以降、日本政府は朝鮮人に対する軍事的動員に慎重であった。被支配民族に武器を持たせることは、反乱や暴動の引き金になりかねないという強い警戒感があったためである。そのため、1937年に日中戦争が勃発し戦線が拡大しても、当初は1938年に制定された朝鮮陸軍特別志願兵令による「志願制」が採られていた。当時の日本政府は、「天皇の赤子」として忠誠を尽くす熱意のある者を選抜するという形式をとり、思想的な選別を行っていた。

しかし、1941年に太平洋戦争へ突入し、アメリカ・イギリスをはじめとする連合国との消耗戦が本格化すると、日本軍の兵員不足は決定的なものとなった。ここに至り、日本政府は1943年に「海軍特別志願兵制度」の導入や、朝鮮人の専門学校・大学生を対象とした学徒出陣(陸軍特別志願兵臨時採用)を断行し、最終的に1944年4月から、満20歳に達したすべての朝鮮人男子を対象とする「徴兵制」の全面的な施行へと踏み切った。

皇民化政策の徹底と、権利なき「義務」の強制

朝鮮人の徴兵を円滑に進めるため、日本政府は朝鮮総督府を通じて皇民化政策をより一層激化させた。「内鮮一体」(内地人と朝鮮人は一体であるというスローガン)を名目に、日本語の常用、神社参拝の強制、そして戸籍制度を改変して日本式の氏名へと変更させる創氏改名が強力に推進された。これらは、朝鮮人を「天皇のために命を捧げる皇国臣民」へと精神的・制度的に作り変えるための強制措置であった。

しかし、この徴兵制は極めて重大な矛盾を抱えていた。近代国家における「兵役の義務」は、国政への「参政権(選挙権・被選挙権)」や法的・平等の権利と不可分のものである。それにもかかわらず、朝鮮人には帝国議会への参政権が認められておらず、法的な差別構造も維持されたままであった。つまり、基本的な権利を一切与えられないまま、国家のために命を捨てる義務だけが一方的に強制されたのである。

戦後に引き継がれた未解決の傷跡

徴兵された朝鮮人青年たちは、激戦地であった南洋群島や中国大陸、あるいは本土防衛の最前線へと配備され、多くの尊い命が失われた。また、軍人だけでなく軍属(通訳や捕虜収容所の監視員など)としても多数が動員された。戦後、これらの動員された朝鮮人の一部は、連合国側によって連合国軍捕虜の虐待などの責任を問われ、BC級戦犯として処刑または投獄されるという悲劇に見舞われた。

さらに深刻な問題は戦後に生じた。1952年のサンフランシスコ平和条約発効に伴い、日本政府は在日韓国・朝鮮人の日本国籍を一方的に喪失したとみなした。これにより、日本政府は「国籍条項」を盾に、元朝鮮人日本兵やその遺族を恩給法や戦没者遺族援護法の対象から除外した。軍人給与や各種補償が受けられないというこの不条理は、戦後長らく日韓・日朝間の人権問題・外交課題としてくすぶり続け、今なお法的な救済と歴史的責任の追及を巡る議論が続いている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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