ヤルタ協定

1945年2月、クリミア半島の都市で開かれた米・英・ソの首脳会談で結ばれ、ドイツの分割統治やソ連の対日参戦が秘密裏に約束された協定は何か?
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★★★

【参考リンク】
ヤルタ会談(Wikipedia)

ヤルタ協定

1945年

【概説】
1945年2月、ソ連領クリミア半島のヤルタで開催された米・英・ソ首脳会談において結ばれた協定。
戦後のドイツ処理や国際連合設立のほか、ソ連の対日参戦や千島列島・南樺太の引き渡しなどを定めた極東密約が含まれており、日本の敗戦と戦後の国際秩序決定に多大な影響を与えた。

ヤルタ会談の背景と首脳たちの思惑

1945年初頭、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では連合国側の勝利が目前に迫り、敗戦国ドイツの処理と新たな戦後構想が急務となっていた。同年2月4日から11日にかけ、ソ連領クリミア半島のヤルタにおいて、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソ連首相スターリンによる首脳会談(ヤルタ会談)が開催された。

当時、アメリカは太平洋戦争における日本本土上陸作戦での自国兵士の多大な損害を恐れ、早期に戦争を終結させるためにソ連の対日参戦を強く望んでいた。一方のソ連は、参戦の見返りとして極東における旧ロシア帝国時代の権益回復と領土拡大を狙っており、大国間の思惑が複雑に交錯する中で協定が結ばれることとなった。

ドイツの戦後処理と国際連合の創設

ヤルタ協定では、まずヨーロッパにおける戦後処理が取り決められた。具体的には、敗戦後のドイツを米・英・仏・ソの四カ国で分割占領すること、ドイツの非軍事化やナチ党の徹底的な解体、戦争犯罪人の処罰などが合意された。また、ポーランドの国境線変更と新政府樹立問題についても討議され、東欧におけるソ連の影響力拡大が事実上容認された。

さらに、戦後の新たな国際平和維持機関として国際連合の設立が合意され、安全保障理事会における五大国(米英仏ソ中)の拒否権のあり方(ヤルタ方式)などが決定された。これら一連の取り決めは、のちに東西陣営の対立を基軸とする冷戦構造、いわゆる「ヤルタ体制」の明確な起点となった。

日本史における重大な意味「極東密約」

日本史の観点からヤルタ協定が極めて重要な意味を持つのは、協定内に極東に関する秘密協定(極東密約またはヤルタ密約)が含まれていたことである。この密約では、ドイツ降伏から2〜3ヶ月以内に、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦することが約束された。

その参戦条件として、1904年の日露戦争でロシアが失った権益の回復が提示された。具体的には、南樺太のソ連への返還千島列島のソ連への引き渡し、大連の国際港化および旅順のソ連海軍基地としての租借権回復、中東鉄道や南満州鉄道の日ソ共同運営などが認められた。さらに、外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持も合意された。これらの条件は、日本の領土と権益を当事者不在のまま大国間で分割・割譲するものであった。

日本の敗戦と戦後への深刻な影響

日本政府はこの極東密約の存在を全く知らなかった。そのため、戦局が絶望的となった1945年夏に至っても、日本は日ソ中立条約を根拠にソ連を仲介とした和平工作に一縷の望みを託し、結果としてポツダム宣言の受諾を遅らせることとなった。

しかし、ソ連は密約に基づき8月8日に対日宣戦布告を行い、翌9日には満州や朝鮮半島、樺太などへ一斉に侵攻を開始した。このソ連の予期せぬ参戦と、アメリカによる広島・長崎への原子爆弾投下により、日本政府は最終的に無条件降伏を決断せざるを得なくなった。また、ヤルタ協定で取り決められた千島列島や南樺太のソ連領有化は、現在に至るまで日ロ間の最大の懸案である北方領土問題の直接的な淵源となっており、日本の戦後史に極めて重い禍根を残している。

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ヤルタ会談世界の分割: 戦後体制を決めた8日間の記録 (Nigensha Simultaneous World Issues)

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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