ソ連の対日参戦
【概説】
1945(昭和20)年8月8日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、翌9日未明から満州や樺太・千島列島などに侵攻した事件。アメリカによる広島への原爆投下の直後に行われ、日本のポツダム宣言受諾と終戦を決定づける最大の要因の一つとなった。また、侵攻に伴う民間人の多大な犠牲やシベリア抑留、現代に続く北方領土問題など、戦後に深刻な禍根を残すこととなった。
ヤルタの密約と日本の和平工作
日本は1941年に結んだ日ソ中立条約の存在を盾に、太平洋戦争末期の絶望的な戦局下においても、中立国であるソ連を介した連合国との和平交渉に一縷の望みを託していた。しかし、ソ連の最高指導者スターリンは、1945年2月にクリミア半島で開かれたヤルタ会談において、ドイツ降伏から2〜3ヶ月以内に日本へ参戦する旨をアメリカ・イギリスと極秘に約束していた(ヤルタの密約)。
この対日参戦の見返りとして、ソ連は南樺太の返還や千島列島の引き渡し、大連港の国際化や旅順の租借権など、かつての日露戦争で喪失した満州における権益の回復を確約されていた。日本の軍部や政府の指導層はこうした国際社会の密約を完全に察知できておらず、終戦工作において致命的な情勢判断の誤りを犯していたのである。
電撃的な宣戦布告と満州への侵攻
1945年8月6日の広島への原爆投下により日本の敗色が誰の目にも決定的となると、ソ連は素早く行動を起こした。直後の8月8日深夜(モスクワ時間8日午後5時)、ソ連のモロトフ外相は日本の佐藤尚武駐ソ大使を呼び出し、宣戦布告を通告した。有効期限がまだ1年近く残っていた日ソ中立条約は一方的に破棄され、日付が変わった翌9日未明、ソ連軍は満州国、朝鮮半島北部、南樺太などに一斉に軍事侵攻を開始した。
当時、満州を防衛すべき関東軍は、すでに優秀な兵器や精鋭部隊の主力を南方戦線などに引き抜かれて弱体化の極みにあった。そのため、圧倒的な火力と最新の機械化部隊を誇る150万人規模のソ連軍の前に、日本の国境陣地は瞬く間に蹂躙・突破されることとなった。
満蒙開拓団の悲劇とシベリア抑留
ソ連軍の猛攻に対し、関東軍の部隊や満州国政府の首脳陣は居留民の保護を放棄して早々に後方へと撤退を開始した。その結果、国境付近の開拓村などに取り残された満蒙開拓団をはじめとする日本人居留民たちは、自力での凄惨な逃避行を強いられた。逃亡の途上でソ連軍の攻撃や現地住民の襲撃を受け、集団自決に追い込まれる者や、飢餓や伝染病によって命を落とす者が続出し、中国残留孤児・残留婦人という悲劇を生む原因ともなった。
さらに、武装解除された日本軍将兵や一部の民間人など約60万人は、国際法に違反して捕虜としてソ連領内へ連行された。彼らは極寒のシベリアや中央アジアなど各地の収容所(ラーゲリ)に送られ、劣悪な環境下で森林伐採や鉄道建設などの過酷な強制労働に従事させられた。これにより約6万人が命を落とし、戦後日本社会に深い傷跡を残すシベリア抑留を引き起こしたのである。
終戦への決定打と現代に続く領土問題
ソ連の対日参戦は、日本の戦争指導部に壊滅的な精神的打撃を与えた。頼みの綱であったソ連が完全に敵に回ったことで、「国体護持」などを条件とする有利な講和への道は完全に絶たれた。9日の長崎への原爆投下と相まって、8月14日の御前会議におけるポツダム宣言受諾(無条件降伏)を昭和天皇に決断させる、最大の決定打となったのである。
しかしソ連軍は、日本がポツダム宣言を受諾して戦闘停止を命じた8月15日以降も一方的に軍事侵攻を継続した。8月末から9月上旬にかけて千島列島と北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)を武力で占領し、自国領土への編入を宣言した。この「火事場泥棒」とも称される占領行動は、現在に至るまで日露間の最大の外交懸案である北方領土問題の直接的な起源となっている。