人権指令(自由の指令) (じんけんしれい)
【概説】
太平洋戦争直後の1945年10月4日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して発した、基本的人権の保障を命じる指令。治安維持法の廃止、政治犯の釈放、特別高等警察(特高)の廃止などを命じた。東久邇宮内閣を総辞職に追い込み、その後の戦後民主化を決定づけた画期的な命令である。
指令発令の背景と主な内容
1945年8月の敗戦後、連合国軍の占領下に置かれた日本に対し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は民主化を強力に推進する方針を採った。その先駆けとして同年10月4日に発せられたのが、「政治的市民的及宗教的自由ノ制限除去ニ関スル覚書」、いわゆる「人権指令(自由の指令)」である。
この指令の主たる目的は、戦前および戦中の日本を縛っていた天皇制国家の抑圧的な治安維持体制を解体し、国民に思想・信教・言論の自由を保障することにあった。具体的には、治安維持法、治安警察法、思想犯保護観察法といった治安立法の即時廃止、それらに基づいて投獄されていた思想犯や政治犯の即時釈放が命じられた。さらに、国民の思想統制や弾圧の実動部隊であった特別高等警察(特高)の廃止と、内務大臣(山崎巌)をはじめとする警察幹部の罷免も要求された。
東久邇宮内閣の崩壊と政治犯の釈放
この極めて峻厳な命令は、戦前・戦中の秩序維持を前提としていた東久邇宮稔彦王内閣に決定的な打撃を与えた。同内閣は「国体護持」と「一億総懺悔」を掲げ、戦前体制を温存したままでの緩やかな改革を模索していたため、治安維持法の廃止や共産主義者の釈放といった急進的な要求を自ら実行することは不可能と判断。指令発令の翌日である10月5日、内閣は総辞職を余儀なくされた。
後を継いだ幣原喜重郎内閣のもとで人権指令は実行に移され、10月10日には府中刑務所などから日本共産党幹部の徳田球一や志賀義雄をはじめとする多くの政治犯が釈放された。しかし、その直前の10月1日には、著名な哲学者である三木清が治安維持法違反による拘留中に獄死するという悲劇も起きており、人権指令はまさにこうした非人道的な旧体制を終結させる決定打となった。
戦後民主化の出発点としての歴史的意義
人権指令は、単に治安維持法や特高警察を排除したにとどまらず、日本社会における政治的自由の回復と、その後の本格的な民主化改革の起点となった。指令から約1週間後の10月11日、マッカーサーは幣原新首相に対し、婦人参政権の付与、労働組合の結成促進、教育の自由主義化、秘密審問制度の廃止(司法の民主化)、経済の民主化(財閥解体など)からなる「五大改革指令」を提示し、日本社会の構造改革を本格化させた。
国家による監視や弾圧の恐怖から解放された国民は、これにより自由に政治的発言や社会運動を行う権利を獲得した。人権指令は、政党活動の再建、労働運動の活発化など、戦後民主主義が息吹くための不可欠な土台を提供したのである。