日本進歩党

1945年11月、旧民政党系や大日本政治会に属した議員らによって結成されたが、直後に多くの所属議員が公職追放された保守政党は何か?
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重要度
★★

【参考リンク】
日本進歩党(Wikipedia)

日本進歩党 (にほんしんぽとう)

1945〜1947年

【概説】
太平洋戦争終結直後の1945年11月に結成された、旧立憲民政党の流れを汲む保守政党。結成当初は衆議院で最大多数を誇り幣原喜重郎内閣を支えたが、所属議員のほとんどが連合国軍総司令部(GHQ)による公職追放の対象となり、壊滅的な打撃を被った。のちに改組されて民主党となり、戦後の保守中道勢力の系譜へとつながる。政治的断絶と継続性の狭間で揺れた、戦後初期を象徴する政党である。

旧体制の継承と保守勢力の結集

1945年8月の敗戦後、日本における政党政治の復活に伴い、戦前の二大政党の流れを汲む保守政党の再建が進められた。旧立憲政友会系のメンバーが中心となって結成された日本自由党に対し、旧立憲民政党系や中島知久平ら旧政友会革新派などの議員が結集して組織されたのが日本進歩党である。同年11月16日、衆議院議員223名を擁する戦後最初の最大政党として発足し、初代総裁には旧民政党の長老であった町田忠治が就任した。

しかし、その実態は戦時中の国策協力組織である大政翼賛会や翼賛政治会、大日本政治会に所属していた議員が大半を占めていた。この「戦時体制との強い継続性」は、新憲法制定や民主化を進めるGHQの意向とは決定的に矛盾するものであり、同党の運命を大きく左右することとなる。

公職追放の直撃と総選挙での敗北

日本進歩党は、親米派の外交官出身である幣原喜重郎内閣の与党として政権を支えた。しかし、1946年1月4日、GHQによる第一次公職追放令が出されると、状況は一変した。戦争協力者を公職から排除するこの指令により、進歩党は壊滅的な打撃を受けることとなった。所属議員274名のうち、実に260名が追放対象に指定され、総裁の町田忠治すらも政治活動を禁止されたのである。

この大打撃を被った状態で臨んだ1946年4月の第22回衆議院議員総選挙(戦後初の男女普通選挙)では、追放を免れた新人を擁立せざるを得ず、議政活動の主導権を失った。結果として、鳩山一郎率いる日本自由党に第一党の座を奪われ、第二党へと転落した。選挙後、首相の幣原喜重郎が自ら進歩党の総裁に就任したものの、幣原内閣は退陣を余儀なくされ、政権は吉田茂による第1次吉田内閣(自由党・進歩党の連立)へと移行した。

「民主党」への再編と歴史的意義

第一党から転落した日本進歩党は、戦後民主主義に適応した新たな保守中道政党としての脱皮を模索した。1947年3月、進歩党を解党し、追放を免れた進歩派官僚や他派閥の議員(芦田均ら)を呼び込む形で民主党へと改組・発展解消を遂げた。この民主党は、同年の総選挙後に日本社会党の片山哲内閣に与党として加わり、その後は芦田均連立内閣を組閣するなど、戦後復興期の政局において重要な役割を果たすこととなる。

日本進歩党の歩みは、戦前の翼賛体制の政治家たちが民主化の波の中でどのように再編されていったかを示す典型例であり、戦後日本の政治エリートの「連続性」と、GHQの改革による「断絶」の双方を象徴する存在として歴史的に重要である。

戦後史のなかの日本社会党: その理想主義とは何であったのか (中公新書 1522)

理想を追い続けた革新政党の興亡を辿り、失われた戦後政治の精神構造を解き明かす一冊。

戦後政治史 第四版 (岩波新書 新赤版 1871)

複雑に絡み合う戦後日本の政局と変遷を網羅し、通史として読み解くための必携の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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