松本案(憲法問題調査委員会試案) (まつもとあん(けんぽうもんだいちょうさいいんかいしあん)
【概説】
第二次世界大戦後の憲法改正に向けて、幣原喜重郎内閣の憲法問題調査委員会が作成した憲法改正草案。天皇の統治権(主権)を維持するなど、大日本帝国憲法(明治憲法)の基本骨格をほぼそのまま温存しようとした極めて保守的な内容であった。
1. 憲法問題調査委員会の発足と松本烝治の姿勢
1945年の日本の敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサーは、幣原喜重郎首相に対し憲法の自由主義化(改正)を強く要求した。これを受けて日本政府は、法学者で国務大臣の松本烝治を委員長とする「憲法問題調査委員会」を設置し、自主的な憲法改正案の作成に着手した。
しかし、松本をはじめとする政府や学者などの指導層は、明治憲法自体は優れた憲法であり、軍部の暴走を許したのは解釈や運用の誤りに起因するという認識(明治憲法運用改善論)に立っていた。そのため、天皇の統治権を温存したまま一部の条文を修正する程度で十分であると考え、抜本的な民主化や主権の在り方の変更を想定していなかった。
2. 松本案の保守性と毎日新聞によるスクープ
憲法問題調査委員会がまとめた草案(「憲法改正私案(甲案・乙案)」など、いわゆる松本案)は、天皇が統治権の総攬者であることや陸海空軍の統帥権を持つことを前提とし、内閣の権限をやや強化する程度のものに過ぎなかった。国民の権利についても、「法律の範囲内」という明治憲法特有の制限が残されており、実質的な主権在民や基本的人権の尊重とは程遠い内容であった。
1946年2月1日、毎日新聞がこの調査委員会の試案をスクープとして報道すると、世論や民間団体からは「旧態依然としている」との強い批判が巻き起こった。また、日本の民主化を監視していたGHQも、この内容に強い失望と危機感を抱くこととなった。
3. GHQによる拒絶と「マッカーサー草案」への転換
1946年2月8日、日本政府は正式に「憲法改正草案要綱」をGHQに提出した。しかし、GHQ民政局長のホイットニーらは、天皇主権を維持する松本案を「連合国側や日本国民の要望に全く合致しない」として即座に拒絶した。当時、連合国の一部(特に極東委員会)からは天皇の戦争責任を追及し、天皇制を廃止すべきだという強い圧力がかかっており、マッカーサーは天皇制を維持しつつ日本を速やかに非軍事化・民主化するためには、急進的な憲法改正が必要であると判断した。
結果として、GHQはわずか1週間ほどで独自の「マッカーサー草案」を作成し、2月13日に日本側に提示した。このマッカーサー草案が、その後の日本国憲法の基礎となった。松本案は、終戦直後の日本政府指導層が抱いていた「保守的な現状維持への志向」と、GHQが求めた「徹底的な民主化」との間の埋めがたい認識のズレを象徴する史料として、歴史的に極めて重要な意味を持っている。