第1次吉田茂内閣
【概説】
幣原喜重郎内閣の後を受け、1946年5月に成立した吉田茂を内閣総理大臣とする内閣。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の強力な指導の下、日本国憲法の公布・施行をはじめ、第二次農地改革や教育基本法の制定などの重大な戦後改革を推進した。労働運動の激化に直面して1年あまりで退陣したものの、戦後日本の新たな国家体制を形作る上で極めて重要な役割を担った。
予期せぬ登板と内閣の成立
1946(昭和21)年4月、戦後初となる第22回衆議院議員総選挙が実施され、鳩山一郎率いる日本自由党が第一党となった。本来であれば鳩山内閣が誕生するはずであったが、組閣直前にGHQによって鳩山が公職追放の処分を受けてしまう。行き詰まった鳩山は、幣原内閣で外務大臣を務めていた外交官出身の吉田茂に後継を託した。
当初、吉田は政界の泥沼に入ることを渋ったものの、「GHQの干渉を排除すること」「資金集めは引き受けないこと」などを条件に総裁就任を受諾したとされる。こうして1946年5月22日、日本自由党と日本進歩党の連立による第1次吉田茂内閣が発足した。戦後の混迷期において、親英米派の外交官として知られた吉田が首相の座に就いたことは、その後の日本の命運を大きく左右する第一歩となった。
日本国憲法の制定と新体制の構築
第1次吉田内閣の最大の歴史的意義は、日本国憲法の制定とそれに伴う法体制の整備を成し遂げたことにある。前任の幣原内閣期に作成された「マッカーサー草案」をベースとした憲法改正案は、第90回帝国議会における白熱した審議を経て修正・可決され、1946年11月3日に公布、翌1947年5月3日に施行された。
新憲法の施行に向け、吉田内閣は矢継ぎ早に重要法案を成立させた。地方分権を進める地方自治法、男女同権など家族制度の根本的転換を図った改正民法、さらには内閣法や裁判所法、独占禁止法などが次々と制定された。これにより、大日本帝国憲法下の体制は解体され、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を柱とする戦後日本の新たな国家枠組みが確定したのである。
徹底した戦後改革と経済再建の模索
社会・経済分野においても、GHQの指令に基づく急進的な改革が実行された。前内閣期に成立した第一次農地改革が「不十分である」としてGHQに却下されたため、吉田内閣は地主の土地所有をさらに厳しく制限する自作農創設特別措置法を成立させ、第二次農地改革を断行した。この徹底した措置により、日本の寄生地主制は実質的に解体された。
また、教育の民主化を推し進めるため、教育の基本理念を定めた教育基本法や、六・三・三・四制の単線型学校体系を定めた学校教育法を1947年3月に制定した。一方、終戦直後の極度なインフレーションと生産の落ち込みに対しては、石炭と鉄鋼部門に資金や資材を集中投下する傾斜生産方式を採用し、その資金供給源として復興金融金庫を設立するなど、経済再建に向けた基盤づくりも並行して行われた。
労働運動の激化と退陣
こうした歴史的改革を次々と推進する一方で、インフレと深刻な食糧難に苦しむ労働者による労働運動はかつてない激しさを見せていた。保守的で反共主義者であった吉田は、労働運動に対して強硬な姿勢をとり、1947年の年頭教書において急進的な労働組合運動の指導者を「不逞の輩(ふていのやから)」と非難した。これに激しく反発した労働組合側は、同年2月1日に全国規模の二・一ゼネストを計画するに至った。
ゼネストはマッカーサーの直前の介入(中止指令)によって回避されたが、社会不安と政府への不満は頂点に達していた。このような情勢の中、新憲法下で初めて行われた1947年4月の第23回衆議院議員総選挙において、日本社会党が比較第一党へと躍進する。この結果を受け、吉田内閣は5月に総辞職し、社会党の片山哲を首班とする連立内閣へ政権を明け渡した。第1次内閣はわずか1年で短命に終わったものの、のちに吉田が再び政権の座に返り咲き、長期政権(第2次〜第5次内閣)を築き上げて「吉田路線」を確立するための重要な助走期間となった。