バラック
【概説】
太平洋戦争末期の空襲によって焦土と化した都市部において、住居を失った人々が急造した簡易的な木造小屋。焼け残った廃材やトタン板、防空壕の部材などを用いて建てられ、戦後の極限状態における住宅難と、人々のたくましい生命力を象徴する。建築資材の不足と行政の支援遅れを背景に、都市復興の初期段階を支えた仮設建築物である。
空襲による焦土と戦後住宅難の発生
太平洋戦争末期の米軍による日本本土空襲は、東京をはじめとする主要都市の大部分を焼き尽くした。1945(昭和20)年8月の終戦時において、全国の罹災戸数は約223万戸に及び、外地からの引揚者や復員兵の帰還も重なったことで、日本全体で約420万戸という深刻な住宅不足に直面することとなった。
国や自治体による住宅供給は資金・資材ともに不足して立ち遅れたため、焼け跡に取り残された人々は、自力で雨露をしのぐ生活空間を確保せざるを得なかった。こうした状況下で、焦土から拾い集めた鉄板やトタン、焼け残った木材、あるいは軍から払い下げられたテントや防空壕の部材などを用い、極めて粗末な造りで応急的に建てられた住居がバラックである。これらは防水性や防寒性、衛生環境が著しく劣悪であったが、生活再建のための最低限の拠点として機能した。
闇市と都市景観における「バラック」
バラックは単なる住居にとどまらず、都市の戦後復興における経済活動の足がかりともなった。主要なターミナル駅周辺の焼け跡には、不法占拠の形でバラックが密集し、やがてこれらが生活物資や食料を取引する闇市(闇市街)へと発展した。新宿や池袋、梅田(大阪)などの大規模な駅前バラック群は、戦後の混乱期における混沌とした活気と、無秩序な都市空間の象徴となった。
日本国内における「バラック」の歴史を遡ると、1923(大正12)年の関東大震災後にも大量の仮設小屋が建てられており、当時は画家や建築家(今和次郎ら「バラック装飾社」)によって芸術的な美飾を施したモダンなバラックも登場した。しかし、第二次世界大戦後のバラックは、物資の極端な枯渇や社会の困窮から、装飾性を排除した、生きるための「剥き出しの生存空間」という性格がより一層強かった点に特徴がある。
これら無数のバラックは、1950年代に入り戦後復興が本格化し、日本住宅公団などによる公営住宅(団地)の整備や、戦災復興事業に伴う土地区画整理が進むにつれて順次解体・整理され、現代的なビル街へと姿を変えていった。