復員
【概説】
アジア太平洋戦争の敗戦に伴い、国内外に展開していた大日本帝国陸海軍の軍人が武装解除され、軍籍を離脱して民間人に戻ること。ポツダム宣言に基づく日本軍の完全解体プロセスであり、一般邦人の「引き揚げ」とともに戦後日本の重要な社会事象となった。
敗戦と日本軍の解体・非軍事化
1945(昭和20)年8月のポツダム宣言受諾により、日本軍は連合国軍に対して無条件降伏し、速やかに武装解除されることとなった。当時、外地や占領地には約350万人もの軍人と約310万人の民間人が取り残されていた。日本政府はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令の下、軍の解体と帰還作業を進めるため、同年11月末に陸海軍両省を廃止し、12月に陸軍省を第一復員省、海軍省を第二復員省へと改組した。後にこれらは統合されて復員庁となる。復員は、単に兵士が故郷へ帰還するというだけでなく、明治以来の日本の国家体制の中核であった巨大な軍事組織を解体し、国家を非軍事化するための重要な政治的・社会的プロセスであった。
復員・引き揚げの困難とシベリア抑留
海外からの復員は、船舶の喪失や現地の政治的混乱により困難を極めた。連合国側が用意した復員船や、かつての日本の軍艦・商船が輸送に動員されたが、帰還には長い年月を要した。なお、民間人が外地から帰還することは「引き揚げ」と呼ばれ、復員と並行して進められたが、敗戦の混乱の中で飢餓や感染症、現地民の襲撃などにより多くの命が失われた。
とりわけ過酷だったのが、ソ連の侵攻を受けた満州(中国東北部)や樺太・千島列島方面における復員である。武装解除された日本兵の多くは、ジュネーヴ条約に反してソ連領内へと連行され、長期間にわたって強制労働に従事させられるシベリア抑留の悲劇に見舞われた。約60万人とも言われる抑留者は極寒と飢餓の中で重労働を強いられ、約6万人が命を落とした。彼らの復員事業は冷戦の激化も影響して遅々として進まず、最後の帰還船が舞鶴港(京都府)に入港したのは1956(昭和31)年のことであった。
国内社会への影響と復員兵の苦悩
命からがら帰還した復員兵を待っていたのは、空襲で焼け野原となった祖国と、深刻な食糧難やインフレーションに苦しむ社会であった。軍隊という巨大な雇用と生活の基盤が失われたことで、国内には大量の失業者が溢れることとなった。さらに、戦傷を負った傷痍軍人たちは、敗戦直後に軍人恩給などの国家補償が打ち切られたため、白衣姿で街頭に立ち物乞いをせざるを得ないなど、悲惨な生活を強いられた。
また、敗戦による急速な価値観の転換も復員兵を苦しめた。戦前・戦中には「お国のための英雄」として歓送された軍人たちは、敗戦国においては軍国主義の加害者として、あるいは「生きて虜囚の辱めを受けず」というかつての戦陣訓の呪縛から、社会や家族から冷ややかな視線を浴びることも少なくなかった。復員兵がいかにして社会復帰を果たし、精神的な立ち直りを得るかは、戦後復興期における重大な社会的課題であった。
歴史的意義と長く続いた「戦後」
復員事業は、日本の非軍事化を決定づけ、日本国憲法下における平和国家へと移行するための物理的・人的な前提条件を形成したと言える。1950年代にかけて大半の軍人の復員は完了したが、その過程で残された未帰還者問題や戦犯問題など、戦争の爪痕は長く社会に暗い影を落とした。さらに、フィリピンのルバング島やグアム島のジャングルで、終戦を知らされず(あるいは信じず)に潜伏し続けた小野田寛郎や横井庄一のように、1970年代になってようやく「復員」を果たした例もある。「復員」という事象は、日本の戦争が終わった後も人々の間で長く続いた「戦後」という時代を象徴する歴史的概念であると言える。