マッカーサー書簡
【概説】
1948年7月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官マッカーサーが、当時の芦田均首相に対して送った書簡。官公庁労働者(公務員)のストライキ権などの労働基本権を否定し、国家公務員法などの抜本的改正を要求したものである。冷戦の激化に伴うアメリカの対日占領政策の転換、いわゆる「逆コース」を象徴する重要な契機となった。
冷戦の開始と労働運動の激化
第二次世界大戦後の初期において、GHQは日本の民主化政策の一環として労働組合の結成を積極的に奨励した。これにより労働運動は爆発的に高まり、激しいインフレや生活困窮を背景に、政府を追及する争議行為が頻発した。1947年には官公庁労働者を中心とする「二・一ゼネスト」が計画され、マッカーサーの直接命令によって直前に中止に追い込まれるという事態も発生していた。
しかしその後も、官公庁労働者が中心となった反政府的な労働運動は衰えなかった。同時代のアジア情勢に目を向けると、中国での共産党の台頭や米ソ対立の激化など、冷戦構造が急速に形成されつつあった。こうした中、アメリカは日本を「東アジアにおける反共の砦」および「経済的に自立した同盟国」へと育成する方向へ、占領政策を大きく転換(逆コース)させることとなった。日本国内の社会不安を取り除き、経済再建を優先するためには、過激化する公務員の労働運動を抑制することが不可欠と判断されたのである。
政令201号の発令と公務員のスト権剥奪
1948年7月22日、最高司令官ダグラス・マッカーサーは芦田均首相に対し、公務員は「公衆の信託」を受けて職務を遂行する存在であり、政府(すなわち国民全体)に対するストライキをはじめとする争議行為は許されないとする書簡(マッカーサー書簡)を送付した。
芦田内閣はこの意向を全面的に受け入れ、同年7月31日にポツダム勅令として政令201号を公布・即日施行した。この政令により、公務員の団体交渉権は制限され、争議行為(ストライキなど)が完全に禁止された。これに違反した者は刑事罰に処されることとなり、戦後急速に発展してきた官公庁の労働運動は法的な後ろ盾を失って急激に抑え込まれることとなった。
国家公務員法の改正と歴史的影響
政令201号による暫定的な措置は、同年12月に第2次吉田茂内閣のもとで成立した国家公務員法の改正によって恒久化された。さらに、のちに制定される地方公務員法や公共企業体等労働関係法(公労法)にもこの原則が適用され、旧国鉄(日本国有鉄道)や専売公社などの現業公務員に対しても、ストライキ権の剥奪と団体交渉権の制限が課されることとなった。
マッカーサー書簡に端を発する一連の改革は、日本の労働運動史における巨大な転換点となった。これにより、戦後の労働運動を牽引してきた官公庁労働組合(官公労)は大きな打撃を受け、活動方針の変更を余儀なくされた。また、公務員の労働基本権を制限することが日本国憲法第28条(労働基本権の保障)に違反するのではないかという憲法上の争点は、のちの司法の場において長きにわたり争われる重要課題となった。