三鷹事件 (みたかじけん)
【概説】
1949年(昭和24年)7月15日、連合国軍占領下の日本において、国鉄三鷹駅で無人の電車が暴走・脱線し、死傷者を出した事件。同年の「下山事件」「松川事件」と並び、戦後占領期の闇を示す国鉄三大ミステリー事件の一つに数えられる。緊縮財政に伴う国鉄の大量解雇に対し、労働運動が激化する中で発生し、日本共産党員らが起訴されたものの、多くの謎を残したまま現在に至っている。
戦後占領期における「逆コース」と国鉄の合理化
1949年は、日本の戦後史における大きな転換点であった。前年にアメリカ政府が打ち出した「経済安定九原則」に基づき、1949年初頭にデフレ促進政策であるドッジ・ラインが実施された。これにより、超緊縮財政と複数為替レートの導入が断行され、日本経済は安定へ向かう一方で、深刻な不況(ドッジ不況)と合理化の嵐に見舞われた。
特にその矢面に立たされたのが、新足足に発足したばかりの公社「日本国有鉄道(国鉄)」であった。国鉄は行政機関職員定員法に基づき、約10万人という空前絶後の人員整理(大量解雇)を発表。これに対し、強力な組織力を誇る国鉄労働組合(国労)や、それを支援する日本共産党は激しい反対闘争を展開し、社会的な緊張は極限に達していた。このような対立の最中に三鷹事件は発生した。
事件の発生と捜査・裁判の行方
1949年7月15日の夜、中央本線の三鷹駅構内において、留置線に停まっていた無人の7両編成の電車が突然動き出した。電車は速度を上げながら暴走し、三鷹駅のホームに突入後、脱線して駅前広場の交番や住宅を直撃した。この結果、近隣住民や通行人ら6名が死亡、十数名が負傷する大惨事となった。
警察および連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、これを国鉄解雇に反対する共産党員や組合急進派による組織的な破壊工作と断定し、捜査を開始した。結果として、日本共産党員10名と、非共産党員で国鉄運転士であった竹内景助の計11名が逮捕・起訴された。しかし裁判では、共産党員らによる共同謀議の存在を証明する証拠が乏しく、最終的に共産党員らは全員が無罪(1名のみ別件で有罪)となった。一方で、自白を二転三転させた竹内景助のみが「単独犯」として一審で無期懲役、二審で死刑判決を受け、最高裁で死刑が確定した。竹内は一貫して無罪を主張し続けたが、再審請求中の1967年に脳腫瘍のため獄死し、事件の真相は今なお闇に包まれている。
労働運動の抑圧と「逆コース」への利用
三鷹事件は、その前後に起きた「下山事件」(国鉄総裁の怪死)や「松川事件」(電車の脱線転覆)とともに、世論に対して強力な政治的インパクトを与えた。メディアは一連の事件を左翼勢力や国労による過激な闘争の結果であるかのように報じ、これによって大衆の労働運動に対する支持は急速に冷え込んでいった。
社会的な同情を失った国労は、結果として約10万人の人員整理を抵抗できずに受け入れることとなった。さらに、この事件を契機に左翼勢力への警戒が高まり、のちのレッド・パージ(赤色追放)へとつながる社会運動抑圧の導火線となった。一連の事件は、GHQによる占領政策が「日本の民主化」から「東アジアにおける反共の砦化」へとシフトする、いわゆる逆コースを決定づける象徴的な出来事であったと言える。