冷戦(冷たい戦争)
【概説】
第二次世界大戦後、アメリカを中心とする資本主義(西側)陣営と、ソビエト連邦を中心とする社会主義(東側)陣営の間で生じた、直接の武力衝突を伴わない深刻な対立状態。世界を二分するこの巨大なイデオロギー対立は、戦後日本の占領政策や独立の形式、さらには国内政治や経済発展の軌道に決定的な影響を与えた。
第二次世界大戦後の世界情勢と対立の幕開け
第二次世界大戦においてファシズム打倒のために同盟関係にあったアメリカとソビエト連邦であったが、戦後は新たな国際秩序の主導権やイデオロギーを巡る対立が急速に表面化した。1947年、アメリカのトルーマン大統領が共産主義の封じ込めを宣言するトルーマン・ドクトリンを発表し、さらにマーシャル・プランによる西欧経済復興支援を打ち出すと、ソ連側もコミンフォルムを結成してこれに対抗した。これによりヨーロッパは「鉄のカーテン」によって東西に分断されることとなった。
両陣営は、圧倒的な破壊力を持つ核兵器を互いに開発・保有したことで、直接的な全面戦争(熱戦)に踏み切れば人類が破滅するという恐怖の均衡状態に陥った。その結果、両者の対立は直接の武力衝突を避けながらも、軍拡競争、諜報戦、経済的制裁、そして朝鮮やベトナムなど第三国を舞台にした「代理戦争」という形で世界中で展開された。これが「冷戦(Cold War)」と呼ばれるゆえんである。
アメリカの対日占領政策の転換(逆コース)
日本史という文脈において、冷戦構造がもたらした最大の影響は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による占領政策の根本的な転換である。敗戦当初、アメリカは日本が再び脅威とならないよう、徹底した非軍事化と民主化を推進していた。財閥解体や農地改革、労働組合の育成などがその代表である。
しかし、1949年に中華人民共和国が成立し、同年にソ連が原爆保有に成功するなど、アジアにおいても共産主義の脅威が現実のものとなると、アメリカの対日方針は急旋回した。日本を弱体化させるのではなく、東アジアにおける「反共の防壁」として自立・強化させる方針へと舵を切ったのである。これにより、経済の復興が最優先されるとともに、労働運動の弾圧(レッド・パージ)や、かつての戦争指導者や右翼的指導層の公職追放解除などが進められた。日本の民主化の歩みが逆行したかのようなこの一連の政策転換は、「逆コース」と称される。
朝鮮戦争の勃発と日本の独立・再軍備
1950年6月、北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が勃発した。これは冷戦がアジアにおいて大規模な「熱戦」となった象徴的な事件であった。この戦争は、日本のその後の歩みを決定づける二つの大きな契機となった。
第一に経済的影響である。日本は国連軍(実質的な主体は米軍)の出撃拠点および後方基地となり、大量の軍需物資やサービスが発注された。これにより生じた特需景気(朝鮮特需)は、敗戦のどん底にあった日本経済を一気に息を吹き返させ、後の高度経済成長への足がかりとなった。
第二に軍事的・政治的影響である。在日米軍が朝鮮半島へ出動したことで生じた国内の治安維持の空白を埋めるため、マッカーサーの指令により警察予備隊が創設された。これが保安隊を経て現在の自衛隊へと発展し、日本は事実上の再軍備への道を歩み始めた。また、冷戦の激化は日本の独立の形にも影響を与えた。1951年、日本はソ連などの社会主義陣営を除いた西側諸国と単独講和(サンフランシスコ平和条約)を結び、同時に日米安全保障条約を締結した。日本はアメリカの軍事力と核の傘の下で、西側陣営の一員として生きていく明確な道を選択したのである。
冷戦下の国内政治と「55年体制」
国際的な冷戦構造は、日本の国内政治にもそのまま持ち込まれ、激しい政治的対立を生み出した。サンフランシスコ平和条約の単独講和と日米安保条約の締結に対し、国内ではこれらを支持する保守派と、全面講和と非武装中立を主張する革新派とで世論が二分された。
1955年、安保条約に反対する左右の社会党が統一し、日本社会党として巨大な革新政党が誕生した。これに強い危機感を抱いた自由党と日本民主党の保守二党も、財界からの要請やアメリカの意向を背景に合同し、自由民主党を結成した(保守合同)。こうして成立した「55年体制」は、資本主義陣営に属し日米同盟を基軸とする自民党と、社会主義陣営に親和性を持ち憲法擁護・非武装中立を掲げる社会党が対峙するという、まさに冷戦の構図を国内政治の舞台に投影したものであった。この体制は、冷戦が終わる直前まで日本の政治の基本構造として機能し続けた。
冷戦の終結と日本への波及
1980年代後半、深刻な経済不振に陥ったソ連においてゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)を推し進め、西側との緊張緩和を図った。そして1989年12月、マルタ会談において米ソ首脳が冷戦の終結を公式に宣言した。同年には東欧革命やベルリンの壁崩壊が起こり、1991年末にはついにソビエト連邦自体が崩壊して、約半世紀にわたる冷戦の時代は完全に幕を閉じた。
この世界的な激動は、日本にも大きな波紋を呼んだ。国際的な東西対立という大前提が消滅したことで、55年体制を構成していた保革対立の図式も存在意義を失ったのである。その結果、1993年には自民党が分裂・下野して非自民連立の細川護熙内閣が誕生し、38年間続いた55年体制は崩壊した。冷戦下において「西側の防波堤」という役割を担うことで経済成長に専念し、奇跡的な復興を遂げた日本は、冷戦終結後、新たな国際秩序の中での役割の再定義や、それに続く長期的な経済停滞という未曾有の課題に直面することとなった。