田中義一内閣

1927年に成立し、金融恐慌の沈静化や強硬な対中国外交を展開したものの、張作霖爆殺事件の引責により総辞職に追い込まれた立憲政友会の内閣は何か?
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田中義一内閣

1927年〜1929年

【概説】
1927(昭和2)年に成立した立憲政友会単独の政党内閣。昭和金融恐慌の収拾にあたったほか、中国に対して強硬な武力干渉を行うとともに、国内では治安維持法を改悪し左翼運動を弾圧した。しかし、張作霖爆殺事件の処理を巡って昭和天皇の不興を買い、総辞職に追い込まれた。

金融恐慌の収拾と内閣の成立

1927年、前任の第1次若槻礼次郎内閣(憲政会)は、台湾銀行を救済するための緊急勅令案を枢密院に否決され、昭和金融恐慌の混乱の中で総辞職した。これを受けて「憲政の常道」に従い、野党であった立憲政友会の総裁・田中義一に大命が降下し組閣された。田中は元長州閥の陸軍大将であったが、政友会総裁に迎えられて政界入りした人物である。内閣成立後、大蔵大臣に起用された高橋是清は、直ちに3週間のモラトリアム(支払猶予令)を実施し、日本銀行からの非常貸出しを行うことで、全国的な取り付け騒ぎを沈静化させることに成功した。

「幣原外交」の否定と強硬な対中国政策

外交面において、田中首相は外務大臣を自ら兼任し、前内閣の幣原喜重郎外相が進めた内政不干渉・協調外交(幣原外交)を「軟弱外交」として批判した。そして、満蒙における日本の特殊権益を武力を用いてでも死守するという積極的な「強硬外交」へと転換を図った。1927年の東方会議で対華政策の基本方針を決定すると、蔣介石率いる国民革命軍の北伐(中国統一運動)に対し、居留民保護を名目に3次にわたる山東出兵を強行した。1928年の第2次出兵の際には、済南城内で日中両軍が武力衝突する済南事件を引き起こし、中国民衆の激しい反日運動を招く結果となった。

思想弾圧の徹底と治安維持法の「改悪」

内政においては、徹底した思想・言論弾圧が行われた。1928年2月に実施された第1回普通選挙において、無産政党から8名の当選者が出たことに危機感を抱いた田中内閣は、同年3月に日本共産党や労働農民党などの左翼活動家を一斉に検挙した(三・一五事件)。さらに、翌月には緊急勅令によって治安維持法を改正し、国体変革を目的とする結社に対する最高刑を「死刑」に引き上げるとともに、目的遂行罪を新設して適用範囲を大幅に拡大させた。翌1929年の四・一六事件でも再び大規模な弾圧を行い、全国の警察署に思想犯を取り締まる特別高等警察(特高警察)を配置するなど、国家ぐるみの強権的な監視体制を構築した。

張作霖爆殺事件と内閣の崩壊

強硬な外交と内政を推し進めた田中内閣の命取りとなったのは、満州における軍部の独走事件であった。1928年6月、北伐に敗退して満州へ引き揚げる途上であった奉天派軍閥の張作霖の乗った列車が、関東軍の高級参謀・河本大作らの陰謀により爆破・暗殺される事件が発生した(張作霖爆殺事件/当時の日本政府は「満州某重大事件」と呼称)。

当初、田中首相は事件の首謀者が日本軍であることを認め、関係者を厳罰に処す方針を昭和天皇に上奏した。しかし、軍部や閣僚からの猛反発に遭い、真相を隠蔽して行政処分のみに留める方針へと転換した。再び上奏に赴いた田中に対し、昭和天皇は「前と言葉が違うではないか。お前の顔など見たくない」と強く叱責した。天皇の信任を完全に失った(不興を買った)田中は、内閣を維持することができず、1929年7月に総辞職を余儀なくされた。この事件は、政党内閣が軍部を統制しきれない実態を露呈させ、以後の軍部の独走とファシズム台頭を許す重大なターニングポイントとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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