治安維持法改正
【概説】
1928年、田中義一内閣が帝国議会を回避して緊急勅令により強行した治安維持法の強化策。最高刑に「死刑」を導入し、新たに「目的遂行罪」を設けることで、共産主義運動のみならず広範な社会・言論活動に対する国家的な弾圧体制を決定づけた画期。
三・一五事件と帝国議会における挫折
1925年の第2次護憲運動期に制定された治安維持法は、当初、最高刑が「十年以下の懲役又は禁錮」と定められていた。しかし、1928年2月に日本初となる男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が実施されると、合法的な無産政党が躍進し、その背後で非合法の日本共産党が活発な運動を展開していることが明らかになった。これに危機感を強めた昭和初期の田中義一内閣は、同年3月15日、全国の共産党員や支持者を一斉に検挙する三・一五事件を断行した。
田中内閣はこれを機に、社会主義運動を根絶やしにするため治安維持法の罰則を大幅に強化する改正案を帝国議会に提出した。しかし、この改正案は「国民の思想や学問の自由を著しく脅かす」という世論の反発や、野党側の反対によって議会での審議が未了のまま廃案へと追い込まれた。
緊急勅令による強行と死刑の導入
議会での法案成立を阻まれた田中内閣は、議会閉会中という状況を利用し、大日本帝国憲法第8条に規定された緊急勅令を適用するという強硬手段に出た。これは緊急時に天皇の権限で法律に代わる命令を出す制度であり、帝国議会の事前審議を経ずに、1928年6月29日に「治安維持法中改正ノ件」として一方的に公布・施行された。
この改正の最大の要点は、国体の変革(天皇制の否定)を目的とする結社の組織者や指導者に対する最高刑を、従来の懲役10年から死刑、または無期懲役・禁錮へと引き上げたことである。国家権力による思想・良心の統制において、最高刑として死刑が導入されたことは、国民に強烈な恐怖心を与え、自由な言論や社会運動を極めて強く萎縮させる結果となった。
目的遂行罪の新設と弾圧の無制限化
さらに、この改正では「目的遂行罪」が新設された。これは、結社に直接加入していない人物であっても、その結社の「目的の遂行を目的とする行為」を行った者を処罰できるという、極めて抽象的かつ解釈の余地が広い規定であった。これにより、労働運動や小作争議、さらには政府の方針を批判する学術研究や芸術活動までもが、「共産党の目的を利する行為」として恣意的に弾圧される道が開かれた。
1928年の治安維持法改正は、単なる一法律の厳罰化にとどまらず、憲法上の制度(緊急勅令)を濫用して議会制民主主義を無力化した点で大きな歴史的意義を持つ。この改正によって整備された弾圧網は、のちの1941年における治安維持法の全面改正(予防拘禁制度の導入など)へと引き継がれ、日本が軍国主義・全体主義の戦争体制へと突入していくための思想的・組織的な地ならしとなった。