浜口雄幸内閣 (はまぐちおさちないかく)
【概説】
1929年に田中義一内閣の後を受けて成立した立憲民政党の内閣。井上準之助蔵相のもとで緊縮財政と金輸出解禁を断行し、外交では幣原喜重郎外相を起用してロンドン海軍軍縮条約に調印した。しかし、それらの政策が昭和恐慌や統帥権干犯問題を引き起こし、のちに右翼青年による首相狙撃事件を経て総辞職に至った。
田中義一内閣の崩壊と立憲民政党政権の誕生
1929年(昭和4年)7月、張作霖爆殺事件の責任問題で昭和天皇の不興を買った立憲政友会の田中義一内閣が総辞職した。これを受け、野党第一党であった立憲民政党の総裁・浜口雄幸が大命降下を受け、内閣を組織した。これは、当時の二大政党が交互に政権を担当するいわゆる「憲政の常道」に基づく政権交代であった。
風貌や剛直な性格から「ライオン宰相」と呼ばれた浜口は、国民から高い支持と期待を集めた。新内閣は十大政綱を掲げ、特に軍縮を中心とする協調外交の推進と、経済の立て直しに向けた金解禁(金輸出解禁)を至上命令として政権運営にあたった。
井上財政と金解禁の断行・昭和恐慌への転落
浜口内閣は、蔵相に前日本銀行総裁の井上準之助を起用した。第一次世界大戦の勃発以降、日本は金本位制から離脱し「金輸出禁止」の状態が長く続いていたが、内閣は国際経済への復帰と為替相場の安定を目指し、金解禁の実行を急いだ。
井上蔵相は、解禁の前提として徹底した緊縮財政と産業合理化を推し進め、物価の引き下げを図ったうえで、1930年1月に旧平価での金解禁を断行した。しかし、折悪く1929年秋にアメリカで発生した世界恐慌の波及と重なったため、日本の輸出は激減し、正貨(金)の大量流出を招いた。これにより日本経済は極端なデフレに陥り、深刻な昭和恐慌を引き起こすこととなった。農村部でも生糸価格の暴落や凶作が重なり、身売りや欠食児童が急増するなど悲惨な農業恐慌が進行した。
幣原外交とロンドン海軍軍縮条約・統帥権干犯問題
外交面では、幣原喜重郎を外相に起用し、英米との協調と中国への内政不干渉を基調とする「幣原外交」を復活させた。1930年、イギリスの労働党政権の提唱で開かれたロンドン海軍軍縮会議に、前首相の若槻礼次郎や財部彪海相らを全権として派遣した。難航した交渉の末、補助艦の保有総トン数を対米英7割弱とするロンドン海軍軍縮条約に調印した。
しかし、この条約調印に対し、海軍軍令部(加藤寛治部長ら)は「兵力量の決定権を持つ軍令部の同意なしに政府が兵力を制限したのは、天皇の統帥権を侵すものである」と猛反発した。これに野党の立憲政友会(犬養毅や鳩山一郎ら)や右翼団体が同調し、政府を激しく攻撃する統帥権干犯問題へと発展した。浜口首相は議会で毅然とした態度を貫き、最終的に枢密院の反対を押し切って条約の批准を成立させたが、結果として軍部や右翼急進派からの強い恨みを買うこととなった。
首相狙撃事件と内閣の終焉
軍縮条約の強行批准や、深刻な経済不況による社会不安を背景に、国家主義的な右翼運動が激化の一途を辿っていた。1930年11月14日、岡山県での陸軍特別大演習に向かうため東京駅を歩いていた浜口首相は、右翼団体「愛国社」の青年・佐郷屋留雄に銃撃され重傷を負った。
浜口の療養中は外相の幣原喜重郎が首相臨時代理を務めたが、議会での野党の攻撃は止まず、政局は著しく混乱した。翌1931年3月、浜口は無理を押して国会に登院して答弁を行ったものの、これが原因で病状が悪化し、同年4月14日に内閣は総辞職を余儀なくされた(浜口は同年8月に死去)。浜口内閣は、政党政治の黄金期とされる「憲政の常道」の頂点に位置しつつも、自らの政策によって生じた経済的・政治的矛盾に飲み込まれ、日本の政党政治が軍部の台頭によって崩壊に向かう歴史的な転換点に立ち会った政権であった。