大川周明 (おおかわしゅうめい)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した思想家、右翼運動の理論指導者。北一輝らとともに国家改造運動を推進し、昭和初期の数々の軍部クーデター計画を背後で操った。戦後は極東国際軍事裁判(東京裁判)において、民間人として唯一人A級戦犯として起訴されたことでも知られる。
アジア主義の受容と「猶存社」の結成
大川周明は、東京帝国大学でインド哲学を学び、植民地支配に苦しむアジア諸国の解放を唱える「アジア主義」の思想を形成した。大学卒業後は南満洲鉄道株式会社(満鉄)の調査部に入社し、東洋通商や植民地政策の研究に従事する。この時期、大川は欧米の帝国主義に対抗するためには日本自身の国家改造が不可欠であると確信するようになった。
1919年、大川は中国から帰国した北一輝を迎え、満川亀太郎らとともに右翼の革新団体である猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成した。同社は「日本国家の改造」と「アジアの解放」を掲げ、のちの国家社会主義運動や急進的右翼運動の源流となった。しかし、天皇の権限を制限して社会主義的改革を目指す北一輝の思想に対し、天皇絶対主義的な立場をとる大川は次第に対立するようになり、1923年に猶存社は解散に追い込まれた。
昭和恐慌下のクーデター計画と軍部への関与
1920年代末から1930年代初頭にかけての日本は、昭和恐慌による深刻な不況と、政党政治の行き詰まりから社会不安が極限に達していた。大川はこの状況を打破するため、陸軍の急進派将校らで組織された「桜会」などと接近し、武力による政権奪取(国家改造)を画策するようになる。
大川は、1931年に軍部主導のクーデターによって軍人内閣を樹立しようとした三月事件や、同年の十月事件に資金提供や計画立案の形で深く関与した。これらは未遂に終わったものの、翌1932年には、急進的な海軍青年将校らによる犬養毅首相暗殺事件である五・一五事件において、犯行グループに資金や拳銃を提供したとして逮捕された。大川は禁錮5年の実刑判決を受け、これにより日本の政党政治は崩壊し、軍部の発言権が急速に拡大していくこととなった。
東京裁判での起訴と晩年の思想活動
第二次世界大戦での日本の敗戦後、大川は連合国軍総司令部(GHQ)により、民間人でただ一人のA級戦犯容疑者として逮捕され、極東国際軍事裁判(東京裁判)に起訴された。公判初日、大川は法廷で前席に座る元首相・東条英機の禿頭を後ろから叩くなどの奇行を見せ、精神異常と診断されて免訴となった(梅毒性脳症による一時的な精神障害とされる)。
その後、入院生活を送る中で精神状態を回復した大川は、かねてより念願であったイスラームの研究に没頭し、日本初となる個人による『コーラン』の日本語全訳を完成させた。晩年は学術的な活動に専念し、近代日本のアジア主義・イスラーム研究における先駆者としての足跡を遺して、1957年に世を去った。