石原莞爾 (いしわらかんじ)
【概説】
関東軍の作戦参謀として柳条湖事件を立案・実行し、満州事変を主導した昭和期を代表する陸軍軍人。独自の戦略思想である「世界最終戦論」に基づき、日本の存亡を懸けて満州領有を画策した。のちに東條英機と対立して軍の主流から外れ、戦後は極東国際軍事裁判の戦犯指名を免れた。
異端の天才参謀と「世界最終戦論」
石原莞爾は1889年、山形県に生まれた。陸軍士官学校および陸軍大学校を極めて優秀な成績で卒業し、ドイツ留学などを経て独自の軍事・戦略思想を構築していった。その中核をなすのが「世界最終戦論」である。
これは、将来的に東洋の王道(日本を盟主とするアジア)と西洋の覇道(アメリカ)との間で、人類の運命を決する最終戦争が必ず勃発するという予言的な戦略構想であった。石原は、この壮絶な持久戦を勝ち抜くためには日本が自給自足の経済圏を確立する必要があり、そのための絶対的な資源供給基地として「満州(中国東北部)」の領有が不可欠であると結論づけた。
満州事変の主導と「満州国」建国
1928年(昭和3年)に関東軍参謀に就任した石原は、同じく参謀の板垣征四郎らとともに満州武力占領の計画を緻密に練り上げた。そして1931年(昭和6年)9月18日、奉天郊外で南満州鉄道の線路を自ら爆破する柳条湖事件を引き起こし、これを中国軍の犯行とでっち上げて軍事行動を開始した。これが満州事変の発端である。
当時の若槻礼次郎内閣の不拡大方針を完全に無視し、石原ら関東軍は独断専行で戦線を拡大、瞬く間に満州全土を制圧した。翌1932年には清朝最後の皇帝・溥儀を執政に据えて「満州国」を建国させた。石原が構想した「五族協和」「王道楽土」という理念のもと、日本の生命線としての満州経営が開始されたが、実態は日本の傀儡国家であり、この暴走が国際連盟からの脱退や、日本の国際的孤立を決定づける歴史的転換点となった。
二・二六事件と日中戦争における方針転換
満州事変の成功により「軍の英雄」としてもてはやされた石原は、陸軍参謀本部の作戦課長などの要職を歴任する。1936年に発生した青年将校らによるクーデター未遂事件二・二六事件においては、戒厳司令部参謀として断固たる態度で反乱軍の鎮圧にあたった。
しかし、翌1937年に盧溝橋事件を契機として日中戦争(支那事変)が勃発すると、石原は一転して不拡大方針を強く主張した。彼の戦略的目標はあくまで対ソ連戦への備えと、来るべき対米最終戦争に向けた国力の充実(満州の高度国防国家化)であり、広大な中国大陸での泥沼の消耗戦は亡国への道であると危惧したためである。だが、かつて自身が満州事変で見せた「中央の統制を無視した独断専行」という悪しき前例が足かせとなり、武藤章ら拡大派を論理的に抑え込むことができず、結果として参謀本部から左遷されることとなった。
東條英機との対立と失脚
その後、関東軍参謀副長として再び満州に赴任したが、当時の関東軍参謀長であった東條英機と満州国の運営方針を巡って激しく対立した。石原は満州国の独立性を重んじ、アジア諸民族の協和という理想を追求しようとしたのに対し、東條は満州を日本の完全な属国・兵站基地として徹底的に統制しようとした。
この確執が決定的となり、石原は1941年(昭和16年)に予備役に編入され、軍の第一線から事実上追放された。皮肉にも、太平洋戦争という日本にとっての「最終戦争」は、石原を追放した東條らの主導によって、石原の望まぬタイミングと絶望的な態勢で開戦されることとなったのである。
戦後の評価と歴史的意義
終戦後、石原は極東国際軍事裁判(東京裁判)において、満州事変の首謀者であったにもかかわらずA級戦犯としての起訴を免れた。これは、彼が東條英機と激しく対立して開戦前に軍を追放されていたことや、日中戦争において不拡大方針を唱えていたことが連合国側に考慮されたためとされる(重度の膀胱がんを患っていたことも一因である)。彼は法廷に病身を押して証人として立ち、独自の歴史観に基づく堂々たる証言を残したのち、1949年に生涯を閉じた。
石原莞爾は、類まれな先見性と高度な戦略的思考を持つ「天才参謀」であったと同時に、自らの理想を実現するために軍の紀律(統帥権)を破壊し、日本を破滅的な戦争へと引きずり込む発火点を作った張本人でもある。彼の思想と独断専行の連鎖は、昭和陸軍の栄光と狂気、そして日本近代史の最大の悲劇を象徴していると言える。