斎藤実

五・一五事件後に首相に就任し、軍部・官僚・政党が協力する挙国一致内閣を組織した元朝鮮総督(海軍大将)は誰か?
カテゴリ:
重要度
★★★

斎藤実 (さいとう まこと)

1858〜1936

【概説】
五・一五事件後に首相に就任し、立憲政友会と立憲民政党の両党から閣僚を迎えて挙国一致内閣を組織した海軍大将。
満州国の承認や国際連盟脱退など、日本の国際的孤立が進む激動の時代に政権を担い、後に二・二六事件で凶刃に倒れた。

海軍の重鎮としての台頭と朝鮮総督時代の「文化政治」

陸奥国水沢藩(現在の岩手県)に生まれた斎藤実は、海軍兵学校を卒業後、日清・日露戦争に従軍して武勲を立てた。海軍の近代化を推し進めた山本権兵衛の懐刀として海軍次官を長く務め、第1次西園寺公望内閣で海軍大臣に就任した。以後、第3次桂太郎内閣に至るまで連続して海相を務めるなど海軍の重鎮として確固たる地位を築いたが、1914年のシーメンス事件の責任をとって辞任した。

その後、1919年に三・一独立運動が勃発した直後の朝鮮において、第3代朝鮮総督に任命された。斎藤はそれまでの強硬な「武断政治」を改め、憲兵警察制度の廃止や教育制度の拡充などを柱とする融和的な「文化政治」への転換を図った。ジュネーヴ海軍軍縮会議の全権委員を務めるなど一時離任した時期を含め、約10年にわたって総督を務め、朝鮮統治の安定化に尽力した。

五・一五事件と挙国一致内閣の誕生

1932年、五・一五事件で犬養毅首相が海軍の青年将校らに暗殺されると、大正デモクラシー期から続いていた「憲政の常道(政党内閣制)」を継続するか否かが極めて重要な政治課題となった。

この危機的状況において、元老・西園寺公望は、軍部の急進派を牽制しつつ政党勢力との妥協を図るため、穏健で国際協調派と目されていた斎藤を後継首班に推奏した。これにより、立憲政友会と立憲民政党の両党から閣僚を迎え、軍部・官僚・政党の均衡の上に立つ挙国一致内閣が成立した。しかしこれは同時に、1924年の加藤高明内閣から約8年続いた戦前の政党内閣時代が事実上の終焉を迎えたことを意味する、日本憲政史上の重大な転換点であった。

満州国承認と国際連盟からの脱退

斎藤内閣が直面した最大の外交課題は、前年に勃発した満州事変の事後処理であった。斎藤自身は英米との協調を望んでいたものの、軍部や世論の強硬な圧力に抗しきれず、1932年9月に日満議定書に調印して満州国を正式に承認した。

この決定は国際社会との決定的な対立を招いた。国際連盟から派遣されたリットン調査団の報告書が満州国の存立を否定し、総会で日本軍の撤退勧告案が可決されると、1933年に斎藤内閣は松岡洋右全権を退場させ、国際連盟からの脱退を通告した。穏健派として期待された斎藤であったが、結果的に日本の国際的孤立と軍部の台頭を追認する道を進むこととなった。また国内政治においても、京都帝国大学の滝川幸辰教授を休職処分とした滝川事件(京大事件)が起こるなど、思想や学問の自由に対する弾圧が進行した。

退陣と二・二六事件における非業の死

1934年、政財界を巻き込む大規模な汚職疑惑である帝人事件が発覚すると、閣僚など政権幹部が多数起訴された責任をとり、斎藤内閣は総辞職した(後に起訴された全員の無罪が確定)。

首相退任後も、斎藤は天皇の側近である宮中グループの重鎮として重きをなし、岡田啓介内閣の時代には内大臣に就任して昭和天皇を補佐した。しかし、彼のような穏健な現状維持派の存在は、国家改造を企図する陸軍の皇道派青年将校らから「君側の奸(天皇を惑わす悪臣)」として激しい憎悪の対象とされた。その結果、1936年の二・二六事件において自邸を襲撃され、妻の目の前で数十発の銃弾を浴びて暗殺された。斎藤の死は、軍部の暴走を抑える防波堤が失われたことを象徴する悲劇であった。

昭和天皇実録 第六

激動の昭和を象徴する重要な公的記録の第六巻。歴史の真実を浮き彫りにする、重厚な資料価値を持つ必読の一冊。

日本海軍の本総解説

列強と渡り合った軍艦の変遷と、海戦の全貌を網羅した詳細な解説書。知識を深め、当時の技術と戦史の全容を知るための決定版。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 村内で起きた窃盗などの犯罪に対し、領主などの役人の介入を拒み、村人自身が犯人を逮捕・処罰した自治的行為を何というか?
Q. 南淵請安や旻などのように、遣隋使や遣唐使に同行して大陸へ渡り、長期間にわたって仏教の教えを学んで帰国した僧を何というか?
Q. 琉球漂流民殺害事件を起こした台湾原住民の具体的な部族名は何か?