近衛文麿 (このえふみまろ)
【概説】
五摂家筆頭の出身で、端正な容姿と教養から国民的な高い人気を集め、昭和初期に3度にわたり内閣総理大臣を務めた政治家。日中戦争の勃発から泥沼化、国家総動員体制の構築、大政翼賛会の結成など、日本が太平洋戦争へと向かう重大な局面で政権を担った。
五摂家筆頭の貴公子と政界進出
近衛文麿は、藤原北家の流れを汲む公家の最高格である五摂家筆頭・近衛家に生まれた。父は貴族院議長を務めた近衛篤麿である。京都帝国大学においてマルクス経済学者の河上肇の講義を聴講するなど進歩的な思想にも触れたが、やがて元老・西園寺公望の薫陶を受け、1919年のパリ講和会議に随行した。この際、欧米の現状維持的な国際秩序を批判する「英米本位の平和主義を排す」という論文を発表し、早くから気鋭の政治家として注目を集めた。
1933年には41歳の若さで貴族院議長に就任する。五摂家という圧倒的な名門の出身でありながら、長身で端正な容貌を持ち、大衆的な人気を誇っていた。当時、政党政治が行き詰まりを見せるなかで、軍部、政党、官僚、さらには右翼陣営に至るまで幅広い層から「各勢力の対立を調停できる指導者」として次期首相の期待を一身に集めることとなった。
第1次内閣と日中戦争の泥沼化
1937年6月、満を持して第1次近衛内閣が成立した。しかし、組閣直後の同年7月に盧溝橋事件が発生し、日中間の武力衝突が勃発する。当初、近衛は不拡大方針を掲げたが、軍部強硬派や世論の圧力に押し切られる形で華北への派兵を決定し、戦火は全面的な日中戦争へと拡大した。
さらに1938年1月には、ドイツを仲介とした和平工作(トラウトマン工作)を打ち切り、「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という強硬な声明(第一次近衛声明)を発した。これにより蔣介石政権との交渉の糸口を自ら絶ってしまい、戦争の長期化・泥沼化を招く最大の要因を作ってしまった。また、長期戦に対応するため、議会の承認なしに人的・物的資源を統制できる国家総動員法(1938年)を制定し、日本の国家総力戦体制を法的に裏付けた。
新体制運動と第2次・第3次内閣
1939年1月に一旦内閣を総辞職した近衛であったが、ヨーロッパでの第二次世界大戦勃発や国際情勢の激変を受け、強力な政治指導体制の構築を目指す新体制運動を提唱した。1940年7月に第2次近衛内閣を組閣すると、既存の政党をすべて自発的解散に追い込み、大政翼賛会を創設して一国一党的な全体主義体制を作り上げた。
外交面では、松岡洋右外務大臣のもとで日独伊三国同盟(1940年)を締結し、さらに日ソ中立条約(1941年)を結んで南進政策を強力に推進した。しかし、これがアメリカの強硬な経済制裁(対日石油禁輸など)を招き、日米関係は決定的に悪化する。近衛は日米首脳会談による事態打開を模索し、1941年7月に第3次近衛内閣を組織したが、対米強硬派の東條英機陸軍大臣との対立を埋めることができず、日米開戦前夜の同年10月に政権を投げ出す形で総辞職した。
終戦工作と悲劇的な最期
太平洋戦争中、近衛は表舞台から退いていたが、戦局が絶望的となった1945年2月、昭和天皇に対して「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」から始まる有名な近衛上奏文を提出し、敗戦に伴う共産主義革命の危険性を理由に早期の和平実現を訴えた。しかし、この進言が天皇に受け入れられることはなかった。
敗戦後、東久邇宮内閣で国務大臣として入閣し、マッカーサーの示唆を受けて大日本帝国憲法の改正作業(近衛案)に取り組むなど、戦後復興に向けて意欲を見せた。しかし、GHQは次第に戦争責任者としての近衛の過去を問題視するようになり、ついにA級戦犯として出頭を命じた。巣鴨プリズンへの収監予定日の前日である1945年12月16日、近衛は「僕は支那事変(日中戦争)以来、多くの政治上過誤を犯した……しかし戦犯として米国の法廷において裁判を受けることには堪へ難い」との遺書を残し、青酸カリを服毒して自決した。国民的な熱狂の中で登場しながら、ポピュリズムや軍部の圧力に抗しきれず、結果として日本を破滅的な戦争へと導く道筋を作ってしまった、昭和史を象徴する悲劇の宰相である。