矢内原忠雄 (やないはらただお)
【概説】
大正から昭和時代にかけて活躍した経済学者、植民政策学者。東京帝国大学教授を務めたが、日中戦争期に政府の軍国主義政策を公然と批判したため、辞職に追い込まれた。内村鑑三の影響を受けた熱烈な無教会主義キリスト教徒であり、戦後は東大総長として大学の自治と学問の自由を守るために尽力した。
植民政策研究とキリスト教信仰
矢内原忠雄は愛媛県に生まれ、第一高等学校在学中に内村鑑三の「聖書研究会」に参加し、無教会主義のキリスト教信仰に深く傾倒した。東京帝国大学を卒業後、同大経済学部の教授となり、日本の植民地政策に関する研究を進めた。彼の研究は、当時の帝国主義的な領土拡張を無批判に肯定するものとは一線を画していた。
著書『帝国主義下の台湾』や『満州問題』などに代表されるように、現地調査に基づき、日本による植民地支配の矛盾や被支配民族の処遇を人道主義的観点から批判的に分析した。この科学的かつ良心的な研究姿勢は、軍部や右翼勢力から警戒される要因となっていった。
矢内原事件と言論弾圧の激化
1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発すると、言論統制は急速に強化された。矢内原は同年、雑誌『中央公論』に「国家の理想」と題する論文を発表し、「国家の理想は虚偽と暴力を排し、正義と平和を追求することにある」として、日本の軍事行動を間接的に批判した。
この言説や、聖書講義における「日本の滅亡」を示唆するような発言が、右翼や親軍派の学者から「反戦思想」「国体治安を乱すもの」として激しい攻撃の対象となった。文部省や大学当局からの圧力により、矢内原は同年末に東京帝国大学教授を辞任せざるを得なくなった。この一連の出来事は矢内原事件と呼ばれ、滝川事件(1933年)などと並び、昭和戦前近代日本における大学の自治の喪失と言論弾圧の象徴的事件として歴史に刻まれている。
戦後の復職と東京大学総長としての足跡
戦後の1945年(昭和20年)、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導による自由主義的教員の復権に伴い、矢内原は東京帝国大学教授に復帰した。その後は経済学部長、教養学部長を歴任し、1951年(昭和26年)には第15代東京大学総長に就任した。
総長在任中の1952年には、学内の劇団発表会に私服警官が立ち入ったことに端を発するポポロ事件が発生した。矢内原は大学の自治と学問の自由を守る立場から、警察権力の不当な介入に対して毅然とした態度で抗議を行い、戦後の民主主義的な大学のあり方を示す規範となった。彼は終生、キリスト教精神に基づく平和主義と人道主義を貫き通した知識人であった。