人民戦線事件 (じんみんせんせんじけん)
【概説】
日中戦争期の1937年から1938年にかけて、反ファシズムの統一戦線結成を企てたとして、合法左翼の活動家や知識人が一斉検挙された思想弾圧事件。大内兵衛や加藤勘十らが治安維持法違反容疑で逮捕された。この事件により、日本国内における組織的な反戦・反ファシズム運動はほぼ完全に沈黙することとなった。
コミンテルンの新方針と日本国内の警戒
1935年、コミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)は第7回大会において、台頭するファシズムに対抗するため、共産主義者だけでなく自由主義者や社会民主主義者とも協力して「反ファッショ人民戦線」を組織する方針を採択した。この動きはフランスやスペインでの人民戦線政府の樹立へとつながり、世界的な潮流となった。
当時、軍部の台頭と右傾化が進んでいた日本政府および警察当局は、この人民戦線運動が国内に波及することを極めて強く警戒した。特に、すでに壊滅状態にあった日本共産党(非合法)に代わり、合法的・合法に近い形で活動していた左派勢力が「人民戦線」の名の下に大同団結し、反戦・反軍運動を展開することを未然に防ぐ必要性を抱いていた。
二度にわたる大検挙と「労農派」の壊滅
事件は、1937年7月に日中戦争が勃発し、戦時体制への移行が急速に進む中で引き起こされた。弾圧は二段階にわたって行われた。
まず1937年12月の「第一次検挙」では、無産政党である日本無産党のリーダーであった加藤勘十や、労働組合全国評議会(全評)の関係者ら約400名が検挙された。これにより、日本無産党と全評は即座に結社禁止処分に追い込まれた。
続く1938年2月の「第二次検挙」では、大学教授や知識人層にターゲットが移された。マルクス主義の学派である「労農派」に属する学者を中心に、東京帝国大学教授の大内兵衛、有沢広巳、東北帝国大学教授の美濃部亮吉(のちの東京都知事)、脇村義太郎ら約40名が検挙された。彼らは直接的な非合法運動を行っていたわけではなかったが、「アカ(共産主義者)」のレッテルを貼られ、大学から追放されることとなった。
言論・学問の自由の終焉と総力戦体制への道
人民戦線事件の最大の歴史的意義は、治安維持法の適用範囲が「非合法の共産主義運動」にとどまらず、「合法的な社会民主主義運動」や「大学における学術的なマルクス主義研究・自由主義言論」にまで拡大・適用された点にある。
この事件を機に、大学における学問の自由や言論の自由は完全に圧殺された。知識人や運動家たちは、戦争や政府への批判を口にすることが事実上不可能となり、社会全体に強い「自己検閲」の空気が蔓延することとなった。こうして国内の抵抗勢力を一掃した近衛文麿内閣は、1938年5月に国家総動員法を施行し、日本は歯止めのきかない総力戦体制(戦時ファシズム体制)へと突き進んでいくこととなった。