南京事件
【概説】
1937年(昭和12年)12月、日中戦争において日本軍が国民政府の首都である南京を占領した際、多数の中国人捕虜や一般市民を殺害した事件。略奪や暴行なども伴い、戦後の極東国際軍事裁判で裁かれるとともに、今日でも日中間の歴史認識問題における重大な焦点となっている。
日中戦争の激化と南京進撃
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件を契機に勃発した日中戦争(当時の日本側呼称は支那事変)は、当初の局地戦から全面戦争へと拡大した。同年8月に始まった第二次上海事変において、日本軍は中国軍の激しい抵抗に遭い多大な損害を出したものの、最終的にこれを突破した。松井石根大将率いる中支那方面軍は、蔣介石率いる国民政府の首都である南京を陥落させれば、中国側の抗戦意志をくじき早期講和に持ち込めるのではないかという見通しのもと、追撃戦を開始した。しかし、国民政府はすでに長期抗戦を視野に入れ、首都機能を内陸の漢口(のちの重慶)へと移転させる準備を進めていた。
南京陥落と事件の実態
日本軍は1937年12月13日に南京城を陥落させ、同市を占領した。この占領の前後から翌1938年初めにかけて、日本軍は敗走する中国軍の投降兵や捕虜に加え、民間人を装ったとされる便衣兵の摘発を名目に、多数の非戦闘員(一般市民や婦女子を含む)を殺害した。また、城内外での略奪や放火、女性への暴行なども頻発した。これが南京事件(南京大虐殺とも呼ばれる)である。犠牲者の具体的な数については、数万人とするものから中国側が主張する30万人以上とするものまで諸説あり、現在も歴史学者の間で議論が続いている。しかし、多数の非戦闘員に対する殺害や不法行為が行われたこと自体は、日本政府の公式見解や日中歴史共同研究においても否定し得ない歴史的事実として認識されている。
国際社会の反応と国内の隠蔽
当時、南京には「南京安全区国際委員会」を組織したジョン・ラーベをはじめとする第三国の宣教師、医師、外交官、そしてジャーナリストらが滞在しており、彼らの見聞録や報道を通じて、事件の一部は欧米社会に速やかに伝えられた。これにより、国際的な日本のイメージは著しく悪化し、アメリカなどを中心に対日非難の声が高まる一因となった。一方で日本国内では、厳しい言論統制が敷かれており、新聞やラジオは南京陥落を「赫々たる戦果」として大々的に報じ、各地で提灯行列などの祝賀行事が催された。そのため、当時の一般の日本国民が事件の凄惨な実態を知ることはなかった。
戦後の裁きと歴史認識問題
第二次世界大戦における日本の敗戦後、この事件は極東国際軍事裁判(東京裁判)および南京軍事法廷において、日本の戦争犯罪として裁かれた。東京裁判では、当時の方面軍司令官であった松井石根が、部下の不法行為を防がなかった不作為の責任(B級戦犯)を問われ、死刑判決を受けて処刑された。戦後長らく、南京事件は日中間の重要な歴史認識問題として位置づけられており、歴史教科書の記述や政治家の発言をめぐって度々外交問題に発展してきた。単なる過去の一事件にとどまらず、戦争がもたらす狂気と非人道性を示す教訓として、現代においても重い歴史的意義を持ち続けている。