戦争文学 (せんそうぶんがく)
【概説】
日中戦争から太平洋戦争期にかけて、戦場の実態や兵士の心理、あるいは銃後の生活を描いた文学作品の総称。国家による検閲や言論統制の影響を強く受けつつも、多くの作家が戦地に赴き執筆活動を展開した。戦意高揚の国策に利用される一方で、戦争の非情さや人間の極限状態を描き出した作品も存在し、近代日本文学史における特異な領域を形成している。
日中戦争と「ペン部隊」の光影
1937年(昭和12年)の日中戦争勃発を機に、政府や陸海軍は世論の支持を獲得し国民の戦意を高揚させるため、文化人や作家を情報戦に動員した。内閣情報部などの主導により、多くの高名な作家が従軍記者として前線へ派遣される「ペン部隊」が結成され、彼らが現地で得た体験をもとに多くの戦争文学が執筆された。
その代表格が火野葦平である。兵士として現地で戦い、後に報道部員となった火野が執筆した『麦と兵隊』(1938年)は、過酷な戦場にあっても人間性を失わない兵士たちの姿を素朴に描き、国民の間で空前のベストセラーとなった。火野はその後も『土と兵隊』『花と兵隊』を発表し、国策に寄り添う形で国民的作家としての地位を確立した。しかしその一方で、石川達三が南京攻略戦直後の戦場を取材して描いた『生きてゐる兵隊』(1938年)は、兵士の精神的荒廃や戦場の残酷な現実をリアルに描写したため、当局の検閲により掲載誌『中央公論』が発売禁止処分となり、石川自身も新聞紙法違反で禁錮刑(執行猶予付き)の判決を受けた。この対照的な二つの事象は、当時の戦争文学が常に国家による検閲と、文学的真実(リアリズム)の追求というジレンマの狭間に置かれていたことを象徴している。
太平洋戦争期の言論統制と国策文学
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、日本社会の総力戦体制化は極限に達し、言論と表現の自由は完全に失われた。1942年には、文学者による戦争協力を一元化するための国策組織「日本文学報国会」が結成され、多くの作家がこれへの加入を余儀なくされた。
この時期の戦争文学は、日中戦争期に見られた戦場のリアリズムから離れ、純粋な戦意高揚や皇国思想、大東亜共栄圏の理念を宣伝するための「国策文学」へと変容していった。戦場における英雄的な死(玉砕など)や、極度の物資不足に耐える銃後の庶民の献身が美化され、文学は事実上、国家のプロパガンダ機関の一部となった。しかしその一方で、永井荷風や谷崎潤一郎のように、沈黙を守ることで国策への協力を拒み、自らの文学的純粋性を守り抜こうとした作家たちの抵抗も存在した。
終戦後、これら戦争期の従軍体験や国家による抑圧への反省は、野間宏の『真空地帯』や大岡昇平の『野火』といった、戦争の悲惨さと非人間性を厳しく告発する「戦後文学」を生み出す原動力となり、昭和の戦争文学が残した爪痕は戦後日本文学の重要な出発点となった。