生きてゐる兵隊 (いきているへいたい)
【概説】
日中戦争期における日本軍兵士の実態と戦場の凄惨な現実をリアルに描き、政府当局によって発禁処分とされた石川達三の小説。1938年(昭和13年)の雑誌『中央公論』3月号に掲載されたが、即座に発売禁止処分を受け、著者や編集者が処罰された。戦時下の言論・出版統制の強化を象徴する文学史的・歴史的事件として知られる。
戦場の真実と創作の背景
1937年(昭和12年)7月に始まった日中戦争(支那事変)において、日本軍は同年末に中華民国の首都・南京を攻略した。この南京攻略戦に『中央公論』の従軍記者として派遣されたのが、第1回芥川賞作家である石川達三であった。石川は激戦直後の南京やその周辺で、兵士たちの生々しい姿や、極限状態における人間性の崩壊を克明に取材した。
帰国後、石川はその見聞をもとに小説『生きてゐる兵隊』を執筆した。本作では、勇猛果敢な「皇軍」の美名とはかけ離れた、殺戮や略奪、放火に手を染める日本兵の姿や、戦場の過酷さに麻痺していく心理が客観的かつ写実的に描かれた。これは当時の国民に流布されていた、正義の戦いを行う「美化された兵士像」を根底から覆すものであった。
言論統制の強化と「中央公論」発禁事件
本作は1938年(昭和13年)2月発売の『中央公論』3月号に掲載されたが、内務省の検閲当局は直ちにこれを発売禁止(発禁)処分とした。掲載にあたっては、事前に編集部による多数の伏字(検閲を避けるための空白や記号化)が施されていたが、それでも当局は「反軍的」かつ「朝憲(国家の秩序)を紊乱するもの」と判断したのである。
さらに政府は単なる出版物の回収にとどまらず、同年3月に著者である石川達三、および『中央公論』編集長であった雨宮庸蔵らを新聞紙法違反で起訴した。同年10月の判決により、石川は禁錮4ヶ月(執行猶予3年)の有罪判決を受けた。この厳罰化は、知識人や作家たちに対して「国策に反する執筆は許されない」という強力な威嚇として機能することとなった。
歴史的意義と戦時下の文学
『生きてゐる兵隊』の発禁と処罰は、日本の言論界・出版界における重大な分岐点となった。これ以降、軍部や政府による言論統制・検閲は一層苛烈を極め、多くの作家が自己検閲を余余儀なくされていく。国家の戦争遂行に協力する「ペン部隊」などの国策文学・戦争協力文学が推奨される一方で、戦争の悲惨さや不都合な真情を描くことは完全に不可能となった。
本作は長らく陽の目を見なかったが、敗戦後の1945年(昭和20年)12月、伏字を復元した「完全版」がようやく刊行され、多くの読者に戦場の実態を伝えることとなった。軍国主義へと傾斜していく昭和戦前期において、作家が良心とリアリズムに基づいて戦争を描こうとした、抵抗と挫折の歴史を象徴する作品である。