日独伊三国防共協定
【概説】
1937(昭和12)年に日本、ドイツ、イタリアの三国の間で締結された、コミンテルン(国際共産主義運動)に対する政治的防衛協定。前年に結ばれた日独防共協定にイタリアが参加する形で成立したものであり、のちの第二次世界大戦における「枢軸国」陣営の形成へと繋がる歴史的な結節点となった。
日独防共協定の成立と国際的孤立
日独伊三国防共協定の前提となったのは、1936(昭和11)年に広田弘毅内閣の下で結ばれた日独防共協定(正式名称:共産インターナショナルに対する協定)である。当時の日本は、1933年の国際連盟脱退以降、外交的な孤立を深めていた。さらに満州国を建国したことで国境を接することとなったソ連は、極東での軍備を増強しており、日本にとって最大の仮想敵国となっていた。
一方、ヨーロッパではナチスを率いるヒトラー政権下のドイツが同じく国際連盟を脱退し、第一次世界大戦後のベルサイユ体制の打破を目指して軍拡を進めていた。1935年、モスクワで開催された第7回コミンテルン大会において「反ファシズム人民戦線」戦術が採択され、日独への対決姿勢が明確化されたことを契機に、国際社会で孤立しつつソ連を警戒する日本とドイツの利害が一致し、両国間で防共協定が締結されたのである。これには、ソ連の攻撃に対する協議を定めた軍事的な秘密付属協定も含まれていた。
イタリアの参加と「防共」の真意
翌1937(昭和12)年11月、第1次近衛文麿内閣期において、この協定にムッソリーニ率いるイタリアが加わり、日独伊三国防共協定が成立した。当時のイタリアは、1935年のエチオピア侵攻や、1936年からのスペイン内戦への軍事介入(フランコ将軍支援)を通じてイギリスやフランスとの対立を決定的なものとしており、国際連盟からの脱退に向かいつつあった。
この協定は、名目上こそ「コミンテルンの破壊活動に対する共同防衛や情報交換」を掲げていたが、その実態は単なる思想的な防衛条約ではなかった。実質的には、英仏をはじめとする既存の民主主義的な国際秩序に対して不満を持つ「現状打破国(ファシズム国家)」の政治的な連帯という側面が極めて強かったのである。
日中戦争への影響と三国軍事同盟への道
協定締結の同年にあたる1937年7月、盧溝橋事件を契機に日中戦争が勃発し、戦火は中国大陸全体へと拡大していた。ソ連は中ソ不可侵条約を結んで蔣介石政権(国民政府)へ軍事支援を行い、英米仏も中国を背後から支援したため、日本は泥沼の長期戦に引きずり込まれていた。日本にとって三国防共協定は、ソ連の背後をヨーロッパ側から牽制させ、日中戦争を有利に展開するための外交的な手札でもあった。
しかしその後、1939年8月に防共のパートナーであるはずのドイツが、突如としてソ連と独ソ不可侵条約を締結したことで協定の意義は根本から揺らぎ、当時の平沼騏一郎内閣は「欧州の天地は複雑怪奇」との言葉を残して総辞職に追い込まれた。それでも、日中戦争の膠着とアメリカとの対立悪化を打開するため、日本国内では再びドイツ・イタリアとの提携を求める声が強まった。そして1940年9月、より明確な軍事同盟である日独伊三国同盟へと発展することとなる。三国防共協定は、のちの第二次世界大戦において世界を二分する「枢軸国」の枠組みを作り出した、極めて重要な第一歩であったといえる。