枢軸国
【概説】
第二次世界大戦において、日本・ドイツ・イタリアの三国同盟を中核とし、連合国と戦った国家群の総称。反共産主義や既存の国際秩序(ヴェルサイユ体制・ワシントン体制)の打破を掲げて結集したが、戦略的な連携を欠いたまま各個撃破され、最終的に敗北・解体した。
「枢軸」という名称の由来と陣営の萌芽
「枢軸(Axis)」という名称は、1936年にイタリアの指導者ベニート・ムッソリーニが演説のなかで用いた「ローマ・ベルリン枢軸」という言葉に由来する。当時、ナチス・ドイツは第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制の打破を、ファシスト・イタリアはエチオピア侵攻による国際的孤立からの脱却を目指しており、両国は現状打破という利害の一致から急速に接近した。
一方、日本は1931年の満州事変とそれに続く国際連盟脱退によって国際社会での孤立を深めており、満州国と国境を接するソ連(共産主義)への警戒感を強めていた。こうして日本とドイツは1936年に日独防共協定を結び、翌1937年にはイタリアが参加して日独伊三国防共協定へと発展した。これが後の枢軸国陣営の原形である。
日独伊三国同盟の締結と参加国の拡大
1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ドイツは電撃戦によって西ヨーロッパを席巻した。この「バスに乗り遅れるな」という機運が日本国内で高まり、1940年9月、日本・ドイツ・イタリアは日独伊三国同盟を締結した。この同盟は、ヨーロッパ新秩序(独伊)および大東亜新秩序(日本)の建設における相互の指導的地位を承認し合うとともに、第三国(主にアメリカを想定)からの攻撃に対する相互援助を義務付けたものであり、枢軸国の中核となる政治的・軍事的な紐帯となった。
その後、枢軸国側にはドイツの圧力やソ連への対抗心から、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国やフィンランドが参加した。また、アジアにおいては日本と軍事同盟を結んだタイが事実上の枢軸国として振る舞い、傀儡政権である満州国や南京国民政府(汪兆銘政権)などもこの陣営に組み込まれていった。
枢軸国の構造的弱点と戦略的連携の欠如
アメリカ、イギリス、ソ連、中国を中心とする連合国に対抗すべく形成された巨大な枢軸国陣営であったが、その内実には致命的な弱点が存在した。最大の欠陥は、同盟国間における戦略の共有や軍事的な連携が著しく欠如していたことである。
例えば、1941年6月にドイツがソ連に侵攻(独ソ戦)した際、日本は直前まで明確な通告を受けていなかった。逆に同年12月、日本が真珠湾攻撃を行い太平洋戦争を開始した際にも、ドイツやイタリアへの事前相談は行われなかった。結果として、日本は日ソ中立条約を維持してソ連とは戦わず、ドイツは米英ソを相手に二正面作戦を強いられるなど、互いの主敵や戦略目標が全く噛み合っていなかった。また、地理的な隔絶によって軍事物資や技術の融通も極めて限定的(潜水艦による細々とした輸送など)にとどまった。
枢軸国の敗北と歴史的意義
圧倒的な工業力と豊富な資源を誇るアメリカ、そして莫大な人的資源で反撃に転じたソ連を中核とする連合国の前に、連携を欠く枢軸国は次第に劣勢へと追い込まれた。1943年9月にイタリアが降伏して枢軸から脱落すると、1945年5月にはドイツが無条件降伏し、同年8月のポツダム宣言受諾による日本の降伏をもって、枢軸国陣営は完全に崩壊した。
戦後、戦勝国である連合国(United Nations)はその枠組みをそのまま維持・発展させ、新たな国際秩序の要として国際連合を創設した。国連憲章には、日本やドイツなどの旧枢軸国が再び侵略行為を行った場合に安保理の許可なしに軍事的制裁を加えることができるとする「旧敵国条項(敵国条項)」が規定された。第二次世界大戦における枢軸国の結成と敗北は、現代にまで続く国際政治の枠組みを決定づける極めて重大な歴史的転換点となったのである。