米内光政内閣 (よないみつまさないかく)
【概説】
阿部信行内閣の後を受けて1940年1月に成立した、海軍大将の米内光政を首相とする内閣。日独伊三国同盟の締結に慎重な姿勢をとったため、同盟推進を主張する陸軍の倒閣運動によって、わずか半年余りで総辞職に追い込まれた。
1. 成立の背景と親英米派としての米内光政
1940年(昭和15年)1月、外交・経済政策の行き詰まりから退陣した阿部信行内閣のあとを受け、昭和天皇の強い信頼を得ていた海軍大将の米内光政が組閣した。当時は日中戦争(支那事変)の長期化により米英との関係が悪化しており、昭和天皇は英米との協調を重視し、軍部の暴走を抑えられる人物として米内を強く望んだとされる。
米内は、戦前の近衛文麿内閣や平沼騏一郎内閣で海軍大臣を務めていた際、海軍次官の山本五十六、軍務局長の井上成美とともに「海軍三羽烏(トリオ)」と称され、英米との決定的な対立を招く「日独伊三国同盟」の結成に強硬に反対し続けた経歴を持っていた。首相就任後もこの姿勢を堅持し、親英米的な外交方針のもとで戦争の回避と事態の収拾を模索した。
2. 欧州戦局の激変と「バスに乗り遅れるな」の熱狂
しかし、米内内閣の命運を分けたのは、1940年春に勃発したヨーロッパ戦線の急変であった。ナチス・ドイツがフランスやオランダなど西欧諸国を次々と電撃戦で破り、イギリスを追い詰める事態となると、日本国内(特に陸軍や世論)ではドイツの圧倒的勝利を信じる風潮が急速に強まった。
この結果、国内では「バスに乗り遅れるな」というスローガンが流行し、ドイツと同盟を結んでアジアにおける旧宗主国(仏・蘭・英)の植民地(仏領インドシナ、蘭領東インドなど)に進出すべきであるとする「南進論」が台頭した。三国同盟への親近感が高まるなか、同盟締結に慎重な米内内閣の外交方針は、陸軍や親独派から「時代遅れの現状維持主義」として激しい批判を浴びることとなった。
3. 陸軍の倒閣運動と軍部大臣現役武官制の利用
日独伊三国同盟の早期締結を望む陸軍は、米内内閣を退陣させるため強硬手段に出た。1940年7月、陸軍大臣の畑俊六が単独で辞表を提出し、陸軍は後任の陸相を推薦しないという方針をとった。
これにより、制度上の規定である軍部大臣現役武官制(陸海軍大臣は現役の将官でなければならないという制度)が牙を剥くこととなった。陸相が不在となり、かつ後任の補充もできないため、米内内閣は憲法上の内閣統一を維持できなくなり、同年7月22日に総辞職を余儀なくされた。この陸軍による事実上のクーデター的倒閣により、米内内閣はわずか半年の短命に終わった。
米内内閣の退陣後、第2次近衛文麿内閣が成立すると、陸軍の主導によって同年9月に日独伊三国同盟が締結され、日本は太平洋戦争への破滅的な道を突き進むこととなった。