十月革命(十一月革命) (じゅうがつかくめい(じゅういちがつかくめい)
【概説】
1917年秋、レーニン指導のボリシェヴィキが武装蜂起し、臨時政府を倒してソヴィエト政権を樹立した革命。ロシア暦(ユリウス暦)の10月に発生したことからこの名があり、世界初の社会主義政権を誕生させた。この事件は国際社会に強烈な衝撃を与え、大正期の日本の外交政策や国内の社会運動にも決定的な影響を及ぼした。
ボリシェヴィキの蜂起とソヴィエト政権の樹立
1917年3月(ロシア暦2月)の二月革命によってロマノフ朝の帝政が崩壊した後、ロシアでは自由主義的な臨時政府と、労働者や兵士らによる自治組織ソヴィエトが並立する「二重権力」の状態が続いていた。臨時政府が第一次世界大戦の継続を強行して民衆の支持を失うなか、亡命先から帰国したレーニンは「すべての権力をソヴィエトへ」を掲げて民衆を組織した。
同年11月7日(ロシア暦10月25日)、レーニン率いるボリシェヴィキ(後の共産党)は首都ペトログラードで武装蜂起を敢行し、臨時政府を打倒して政権を掌握した。新政権は直ちに「平和に関する布告」と「土地に関する布告」を発表。地主の土地を没収して国有化するとともに、ドイツなどの同盟国と単独講和を結んで第一次世界大戦から離脱した。これが世界を揺るがした十月革命の全貌である。
シベリア出兵と日本政府の対応
隣国ロシアにおける世界初の社会主義政権の誕生は、天皇制国家であり資本主義・帝国主義路線を進めていた大日本帝国にとって、最大の脅威となった。日本政府および軍部は、共産主義思想(赤化)が東アジアに波及することを極度に恐れた。
1918年、イギリスやフランスなどの要請に呼応する形で、時の寺内正毅内閣はロシア領シベリアへの軍事介入(シベリア出兵)を決定した。これはチェコスロバキア軍の救出を表向きの名目としていたが、本質的には反革命勢力を支援して誕生間もないソヴィエト政権を圧殺し、あわよくば東シベリアに日本の勢力圏を築くことを目論んだ帝国主義的な介入戦争であった。日本は連合国の中で最も多くの兵力を投入し、1922年まで出兵を継続したが、ソヴィエト赤軍やパルチザンの抵抗に遭い、多大な犠牲と軍事費を費やした末に撤退を余儀なくされた。
日本国内への思想的波及と社会運動の活性化
十月革命は、シベリア出兵という軍事行動を通じて日本国内の経済・社会を大きく揺るがした。出兵を見越した米商人の買い占めなどにより米価が急騰し、1918年8月には富山県の漁村から始まった米騒動が全国に波及。これによって寺内内閣は倒れ、日本初の本格的政党内閣である原敬内閣が成立することとなった。
また、ロシア革命の成功は、大正デモクラシー下の日本社会に知的・思想的な大激変をもたらした。抑圧された民衆が権力を奪取したという事実は、日本の知識人、労働者、農民を強く刺激し、1920年代の労働運動や小作争議の爆発的な高まり、さらには日本共産党(1922年結成)をはじめとする社会主義運動の本格化へとつながった。これに対し日本政府は、1925年に日ソ国交樹立(日ソ基本条約締結)を進める一方で、国内の革命運動を徹底的に取り締まるため、普通選挙法と同時に治安維持法を制定し、思想弾圧の体制を強化していくこととなった。