シベリア出兵
【概説】
ロシア革命の波及を恐れた日米などの連合国が、チェコスロバキア軍団救出を名目にソヴィエト政権に対して行った干渉戦争。日本は最も多くの兵力を投入したが、国内で米騒動を引き起こすなどの混乱を招き、目立った成果を得られないまま撤兵に追い込まれた。
ロシア革命と対ソ干渉戦争の背景
1917年、ロシア革命により世界初の社会主義政権であるソヴィエト政権(レーニン指導)が誕生した。ソヴィエト政権は「平和に関する布告」を出し、第一次世界大戦から単独で離脱してドイツと講和を結んだ。東部戦線の崩壊によってドイツ軍が西部戦線に集中することを恐れたイギリスやフランスなどの連合国にとって、これは重大な脅威であった。さらに、社会主義思想が自国や植民地へ波及することを極度に警戒した資本主義列強は、反革命派(白軍)を支援し、武力干渉によって革命政権を打倒しようと画策したのである。
チェコスロバキア軍団救出という名目
干渉戦争の直接的な口実となったのが、チェコスロバキア軍団の救出である。第一次世界大戦中、ロシア軍の捕虜となったチェコ人やスロバキア人は、オーストリア・ハンガリー帝国からの祖国独立を目指して軍団を編成し、連合国側として戦っていた。しかし、ロシア革命後の混乱のなかで彼らはシベリア鉄道経由でウラジオストクから西欧へ向かう途上にあり、その過程でソヴィエト側と武力衝突を起こした。連合国はこの軍団の救出を大義名分とし、1918年にシベリアへの出兵を決定、アメリカは日本に対して共同出兵を提案した。
日本の野心と大規模な派兵
日本の寺内正毅内閣はアメリカの提案を受け入れ、1918年8月にシベリア出兵を宣言した。しかし、日本の真の狙いは単なる軍団救出や反革命勢力の支援にとどまらなかった。軍部を中心とする日本側は、この機に乗じてシベリア東部や北満州における日本の権益を拡大し、独自の勢力圏を構築するという野心を持っていた。そのため、アメリカが約7千人の兵力にとどめたのに対し、日本は日米の取り決めを大幅に超える最大7万3千人もの大軍を派兵し、バイカル湖以東の広大な地域を占領した。この突出した軍事行動は、アメリカをはじめとする列強の強い警戒と不信を招くこととなった。
国内への波及と米騒動の勃発
シベリア出兵は、日本の国内社会にも劇的な影響を及ぼした。大規模な軍隊の派遣には膨大な食糧が必要となるため、政府や軍は大量の米を買い付けた。これを見越した米穀商や地主が米の買い占めや売り惜しみを行った結果、米価が異常な高騰を見せたのである。1918年7月、富山県の漁村の主婦たちによる米の県外移出阻止運動を皮切りに、全国各地で暴動が連鎖する米騒動が爆発した。この騒動の責任をとって寺内正毅内閣は総辞職に追い込まれ、日本初の本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生する歴史的契機となった。
泥沼化する戦線と無惨な結末
シベリアにおける戦闘は、過酷な自然環境と、赤軍(ソヴィエト軍)やパルチザン(非正規軍)の激しいゲリラ戦によって泥沼化した。日本軍は尼港事件(ニコラエフスク事件)などで多数の死傷者を出すなど、多大な犠牲を強いられた。1920年にはチェコスロバキア軍団の撤退が完了し、アメリカなど他の連合国軍は次々と撤兵した。しかし、日本はその後も単独で駐留を続け、内外から激しい非難を浴びた。最終的に、10億円に上る莫大な戦費と数千人の戦死者を出しながらも何ら外交的・軍事的な成果を得られず、1922年に加藤友三郎内閣のもとでようやくシベリア本土からの全面撤兵を完了した。多大な犠牲を払いながら国益を損なったこの干渉戦争は、日本の近代史において大きな汚点を残す結果となった。