常任理事国(国際連盟)
【概説】
第一次世界大戦後に設立された国際連盟の理事会において、恒久的な議席を与えられた主要国の地位。創設当初はイギリス、フランス、イタリア、日本の4カ国が務め、日本にとっては明治以降の近代化が結実し、国際社会から「一等国」として公式に認められたことを象徴するものであった。
国際連盟の創設と「五大国」としての日本
1914年から始まった第一次世界大戦は、これまでの戦争とは次元の異なる総力戦となり、世界に甚大な被害をもたらした。この惨禍を反省し、アメリカ大統領ウィルソンの提唱により、1920年(大正9年)に史上初の国際平和維持機関である国際連盟が創設された。連盟の意思決定機関である理事会は、総会で選出される非常任理事国と、恒久的な議席と強い発言権を持つ常任理事国によって構成された。
当初、常任理事国には大戦の主要戦勝国であるアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本の5カ国(いわゆる五大国)が就任する予定であった。しかし、提唱国であるアメリカが上院の反対により連盟に不参加となったため、発足時は英・仏・伊・日の4カ国体制でスタートした。日本は日清・日露戦争の勝利を経て、第一次世界大戦では日英同盟を理由に連合国側で参戦し、アジア太平洋地域におけるドイツ権益を奪取した。この戦勝国としての実績と国力の伸張が評価され、アジアから唯一の常任理事国として迎えられたのである。
アジア唯一の常任理事国としての役割
常任理事国への就任は、幕末の開国から明治維新を経て、不平等条約の改正や欧米列強に追いつくことを国是としてきた日本にとって、「一等国」の地位を国際社会から公式に承認されたことを意味し、外交上の大きな到達点であった。日本は常任理事国として、旧ドイツ領であった赤道以北の南洋諸島(ミクロネシア)を委任統治領として国際連盟から託されるなど、アジア・太平洋地域における強国としての地位を揺るぎないものとした。
また、日本は連盟の運営にも積極的に貢献しようとした。その象徴が、国際連盟の事務次長に就任した新渡戸稲造である。新渡戸は「太平洋の橋」となることを志し、国際的な知的交流や小国間の紛争調停に尽力した。1920年代の日本外交(いわゆる幣原外交)は、国際協調主義を基調としており、常任理事国としての責任を果たすことで自国の安全保障と経済的利益の維持を図ろうとしていた。
満州事変と連盟脱退への道
しかし、1920年代後半から1930年代にかけて、日本の国際協調路線は行き詰まりを見せ始める。1931年(昭和6年)に勃発した満州事変は、日本軍(関東軍)の独断専行によって引き起こされたものであったが、日本政府は世論の支持を背景に最終的にこれを追認し、翌1932年には傀儡国家である満州国を建国した。
この日本の軍事行動は、国際連盟の根幹である集団安全保障体制に対する重大な挑戦であった。中国の提訴を受けた国際連盟は、リットン調査団を現地に派遣して実態の調査を行った。1933年(昭和8年)、調査団の報告書に基づき、満州国の不承認と日本軍の撤兵を求める勧告案が連盟総会で採決された。賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で勧告が圧倒的多数で採択されると、日本の全権代表であった松岡洋右は議場から退場した。同年3月、日本政府は正式に国際連盟からの脱退交通告を行った。
歴史的意義と「一等国」からの転落
日本の国際連盟脱退は、自ら常任理事国という世界の指導的立場を放棄し、国際協調の枠組みから離脱することを意味した。この決断は、日本を国際社会における孤立へと向かわせ、結果的に日独伊三国同盟の結成、そして第二次世界大戦(太平洋戦争)の破滅へと突き進む歴史的転換点となった。
常任理事国であった約13年間は、日本が近代国家として世界の頂点に最も近づき、西洋列強と対等に新たな国際秩序の形成に参画した輝かしい期間であった。しかし同時に、満州における自国の特殊権益の死守という帝国主義的野望と、国際連盟が目指した平和秩序との間の矛盾を克服できず、自らその座を蹴り飛ばしたという点で、近代日本外交の栄光と限界を端的に象徴する地位であったといえる。