ワシントン体制
【概説】
ワシントン会議における諸条約によって形成された、1920年代のアジア・太平洋地域における国際協調的な新しい秩序。ヨーロッパを中心とするヴェルサイユ体制と並び、第一次世界大戦後の世界の平和と安定を支える国際的枠組みとして機能した。日本においてもこの体制を受け入れ、いわゆる「幣原外交」による協調路線が展開された。
ワシントン会議の開催と体制の成立
第一次世界大戦終結後、ヨーロッパではパリ講和会議を経て国際連盟を中核とするヴェルサイユ体制が構築された。しかし、この体制は主にヨーロッパの秩序再建を目的としており、アジア・太平洋地域における利害調整は不十分であった。特に、大戦中に中国大陸や太平洋地域へ進出し、国際的地位を急激に高めた日本の動向に対し、アメリカやイギリスは強い警戒感を抱いていた。また、日米英間では主力艦の建艦競争が激化しており、各国の国家財政を著しく圧迫していた。
こうした背景のもと、1921年から1922年にかけて、アメリカ大統領ハーディングの提唱によりワシントン会議が開催された。この会議で結ばれた一連の条約群によって形成されたアジア・太平洋地域の新たな国際関係の枠組みこそが、ワシントン体制である。
体制を構成する三つの柱
ワシントン体制は、主に三つの重要な条約によって支えられていた。第一が米・英・仏・日の間で結ばれた四カ国条約である。これは太平洋における各国の領土的権利の相互尊重と、非軍事拠点化を定めたものであった。同時に、これまでアジアにおける日本の勢力拡大の強力な後ろ盾となっていた日英同盟が廃棄され、二国間同盟から多国間協調への転換が図られた。
第二が、米・英・仏・日・伊など計9カ国で結ばれた九カ国条約である。ここでは中国の主権尊重、領土保全、門戸開放、機会均等というアメリカの伝統的な主張が明文化された。また、日本が大戦中に獲得した山東省の旧ドイツ権益の返還や、中国における日本の特殊権益を認めていた日米間の石井・ランシング協定の廃棄が決定され、中国大陸における日本の独占的な進出は強く牽制されることとなった。
第三がワシントン海軍軍縮条約(五カ国条約)である。主力艦の保有トン数比率を「米5:英5:日3:仏1.67:伊1.67」と定め、10年間の新規建造休止(ホリデー)に合意した。これにより、世界的な建艦競争にひとまずの歯止めがかけられた。
協調外交の展開と国内への影響
日本においてワシントン会議の全権を務め、のちに首相となった加藤友三郎や、外務大臣として長く外交を主導した幣原喜重郎らは、このワシントン体制を積極的に受け入れた。軍事費の削減は戦後恐慌にあえぐ国内経済の立て直しに不可欠であり、欧米列強との協調を保ちながら中国市場への経済的進出を図る「幣原外交(協調外交)」が1920年代の日本外交の基本路線として定着した。
一方で、軍縮体制は日本海軍内に深い爪痕を残した。主力艦の対米英7割を求めていた海軍の一部は、比率を6割(3)に抑えられた条約の受諾に強く反発した。この不満はのちに、条約を遵守しようとする「条約派」と、さらなる軍備拡張を求める「艦隊派」の激しい内部対立を生み、1930年のロンドン海軍軍縮条約時における統帥権干犯問題など、軍部が政治に介入する深刻な事態を引き起こす火種となっていった。
ワシントン体制の動揺と崩壊
1920年代を通じてアジア・太平洋地域の相対的な安定をもたらしたワシントン体制であったが、1920年代後半になると大きな試練を迎える。中国国内で蔣介石率いる国民政府による民族運動(国権回復運動)が激化し、列強の権益が直接的に脅かされるようになった。さらに1929年の世界恐慌によって各国の経済的余裕が失われ、列強の足並みが乱れると、多国間協調体制は急速に機能不全に陥った。
日本国内でも、深刻な経済的苦境から、満蒙(満州および内モンゴル)の権益を武力で確保しようとする急進的な軍部の台頭を招いた。1931年に関東軍の謀略により満州事変が勃発し、翌年に日本が満州国の建国を強行したことは、中国の領土保全を定めた九カ国条約の明らかな破壊であった。その後、日本は1933年に国際連盟を脱退し、1936年にはワシントン海軍軍縮条約からも脱退(失効)した。ここにワシントン体制は完全に崩壊し、日本は国際的孤立への道と、のちのアジア太平洋戦争へと突き進んでいくこととなった。