メーデー

1920年5月1日、東京の上野公園で約1万人の労働者が集まり、日本で初めて開催された労働者の祭典は何か?
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★★★

【参考リンク】
メーデー(Wikipedia)

メーデー

1920年〜

【概説】
毎年5月1日に行われる、労働者の権利要求と国際的連帯を示す祭典。日本では大正デモクラシーを背景とした1920年(大正9年)に、東京の上野公園で第1回が開催された。日本の労働運動史において、労働者が公然と集団で権利を主張し始めたことを象徴する画期的な出来事である。

メーデーの国際的起源と日本への導入

メーデーの起源は、1886年5月1日にアメリカのシカゴを中心に労働者が8時間労働制を求めて行った大規模なストライキに遡る。その後、1889年の第2インターナショナル創立大会において、5月1日を労働者の国際的連帯の日とすることが決議され、翌1890年から世界各地で実施されるようになった。日本には明治時代後期に社会主義者らによってその存在が紹介されたが、1910年(明治43年)の大逆事件以降の社会主義運動の「冬の時代」においては、集会を開くことすら困難な状況が続いた。しかし、第一次世界大戦後の急激なインフレーションと大正デモクラシーの潮流の中で労働運動が急速に活発化し、日本でもメーデー開催の機運が高まっていった。

第1回メーデーの開催とその歴史的意義

1920年(大正9年)5月1日、東京の上野公園において日本初となるメーデーが開催された。この大会は、当時最大の労働団体であった友愛会(のちの日本労働総同盟)の鈴木文治らが中心となって企画され、約1万人の労働者が参加した。集会では、「八時間労働制の実施」「治安警察法第17条の撤廃」「失業の防止」という3つの主要なスローガンが掲げられた。当時は第一次世界大戦後の戦後恐慌が発生し、労働争議が急増していた時期であった。この第1回メーデーは、日本の労働階級が自らの権利意識を明確に持ち、統一された要求を公の場で堂々と主張したという意味で、日本の社会運動史における記念碑的な出来事となった。

戦前における弾圧とメーデーの禁止

以後、メーデーは毎年5月1日の恒例行事として全国各地で開催されるようになり、参加者数も増加していった。しかし、昭和期に入ると政府による左翼運動や労働運動への弾圧が激しさを増す。1925年(大正14年)の治安維持法制定や、続く労働農民党などの非合法化を経て、メーデーへの警察の介入や検挙も常態化していった。そして1936年(昭和11年)、二・二六事件に伴う戒厳令下において内務省は第17回メーデーの開催を全面的に禁止した。日中戦争から太平洋戦争へと向かう戦時体制下において労働組合は解散させられ、戦争協力機関である大日本産業報国会に組み込まれたため、戦前のメーデーは1935年の第16回を最後に途絶することとなった。

戦後の復活と「血のメーデー事件」

第二次世界大戦での敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の民主化政策によって労働組合法が制定されると、労働運動は一気に息を吹き返した。1946年(昭和21年)5月1日には、皇居前広場で11年ぶりとなる「第17回メーデー(復活メーデー)」が開催され、約50万人という空前の規模の労働者が結集した。しかし、冷戦の激化とともに占領政策が転換(逆コース)すると、再び労働運動への風当たりは強くなった。サンフランシスコ平和条約発効直後の1952年(昭和27年)に開かれた第23回メーデーでは、使用が禁止されていた皇居前広場にデモ隊が突入し、武装警官隊と激しく衝突して多数の死傷者を出す血のメーデー事件が発生した。その後は、総評(日本労働組合総評議会)や現在の連合(日本労働組合総連合会)など、労働界のナショナルセンターを中心とする平和的な祭典として定着し、現在に至っている。

日本の労働運動 (岩波文庫 青 129-1)

戦後日本の労働運動の変遷を辿り、その社会的役割と今日的課題を鋭く照射する、歴史的視座を備えた重要文献。

大正デモクラシー (岩波現代文庫 学術 55)

大正期における自由主義の隆盛と限界を緻密に描き出し、民主主義の原風景を現代に問い直す思索の書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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