平塚らいてう (ひらつからいちょう)
【概説】
青鞜社を結成して文芸誌『青鞜』を創刊し、のちに新婦人協会を設立して婦人参政権運動の先駆けとなった日本の女性解放運動家。明治から昭和にかけて、家父長制下の良妻賢母主義に抗い、女性の自我覚醒と政治的・社会的権利の獲得に生涯を捧げた。
『青鞜』の創刊と自我の覚醒
明治時代末期の1911年、平塚らいてうは保持研子らとともに女性のみによる文学者集団である青鞜社を結成し、文芸雑誌『青鞜』を創刊した。らいてうが執筆した創刊の辞「元始、女性は太陽であった」は、旧来の封建的な家父長制や国家が強要する良妻賢母主義に縛られていた日本の女性たちに対し、抑圧された自己の解放と自我の覚醒を高らかに宣言するものであった。彼女たちは世間から「新しい女」と呼ばれ、時に社会からの激しいバッシングを受けながらも、女性の自己実現と精神的独立の必要性を世に問い続けた。
母性保護論争への発展
大正時代半ばの1918年頃からは、女性の自立と母性のあり方を巡って母性保護論争が展開された。らいてうは、女性が母として子どもを産み育てることの社会的意義を強調し、国家による母性保護制度の確立を主張した。これに対し、与謝野晶子は国家への依存を否定して徹底した個人の経済的自立を説き、社会主義者の山川菊栄は資本主義体制そのものの打破による解決を主張するなど、三者三様の立場から激しい論争が交わされた。この論争は、女性の社会的役割と権利について日本で初めて本格的に議論された画期的な出来事であり、近代日本のジェンダー史において極めて重要な意義を持っている。
新婦人協会の設立と婦人参政権運動
精神的な解放を目指した『青鞜』での活動を経て、らいてうの関心はより具体的な法制度や政治の変革へと向かった。大正デモクラシーの気運が高まる1920年、市川房枝や奥むめおらとともに新婦人協会を設立した。同協会は、女性の集会結社権を制限していた治安警察法第5条の改正や、花柳病(性病)男性の結婚制限などを目標に掲げた。粘り強い請願運動の結果、1922年には同法第5条2項の改正を実現させ、女性が政治集会に参加し発起人となる権利を獲得した。これは日本における婦人参政権獲得運動の実質的な第一歩となった。
戦後の平和運動への尽力
第二次世界大戦後、日本国憲法の制定によって念願であった男女同権と婦人参政権が実現すると、らいてうは平和運動へと活動の比重を移していった。東西冷戦の激化や朝鮮戦争の勃発を背景に、非武装中立や世界連邦の樹立を強く訴え、日本婦人会議の結成やベトナム反戦運動などにも献身的に関与した。彼女の生涯は、単なる女性解放の枠にとどまらず、反戦・平和を希求するヒューマニズムに貫かれていた。平塚らいてうが日本のフェミニズムの歴史に刻んだ足跡は巨大であり、彼女が蒔いた種は現代の男女共同参画社会へと確実に受け継がれている。