青鞜社 (せいとうしゃ)
【概説】
1911年(明治44年)に平塚らいてうらが中心となって結成した、日本初の女性による文芸集団。機関誌『青鞜』を発行して女性の自我覚醒と才能発揮を促し、後の日本の婦人解放運動の原点となった。
「青鞜」の結成と創刊の辞
1911年(明治44年)、平塚らいてう(明)を中心に、保持研子、中野初子、木内錠子、物集和子を発起人として結成された。社名は、18世紀イギリスの女性知識人たちの集まり「ブルー・ストッキング・ソサエティ」の訳語に由来する。同年9月に創刊された機関誌『青鞜』には、賛助員として与謝野晶子や長谷川時雨といった著名な女性作家も名を連ねた。
創刊号の巻頭には、与謝野晶子の詩「山の動く日きたる」とともに、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という有名な宣言が掲げられた。これは、かつて女性が自立した尊い存在であったのに対し、現在は「他人の光によって輝く月」のように従属的な立場に追いやられていると批判し、女性自身の内なる自我の覚醒と天賦の才能の解放を高らかにうたったものであった。
「新しい女」に対する世間の非難
青鞜社の結成は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。明治時代後期から大正時代にかけての日本は、国家主義的な「良妻賢母」の育成が女性教育の至上命題とされていた時代である。家庭内に縛られ、夫や家長に従属することが美徳とされた社会において、女性が個人の自我を主張し、恋愛や芸術を自由に論じることは、社会秩序を脅かす危険な行為とみなされた。
世間のジャーナリズムは彼女たちを「新しい女」と呼んで好奇の目を向けた。一部の同人による「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」といった行動は誇大にスキャンダルとして報じられ、社会的な非難や嘲笑を浴びることとなった。しかし、こうした偏見や逆風の中でも、彼女たちは座談会や誌面を通じて堂々と反論し、旧弊なモラルに挑戦し続けた。
文芸団体から婦人問題の論壇へ
結成当初の青鞜社は、女性に文学的な発表の場を提供する純粋な文芸団体としての色彩が強かった。しかし、世間の攻撃に直面し、また同人たちの生活や経験が深まるにつれて、次第に社会的な婦人問題について論陣を張る思想団体へと変質していった。
誌面では、結婚制度の矛盾、貞操問題、堕胎(人工妊娠中絶)の是非、廃娼運動などをめぐって白熱した議論が交わされた。これらは「青鞜論争」と呼ばれ、女性の身体的・精神的な自己決定権を初めて公の場で論じた画期的な出来事であった。国家からの弾圧も厳しくなり、『青鞜』は風紀紊乱を理由にたびたび発売禁止処分を受けることとなった。
編集権の移行と事実上の解散
1915年(大正4年)、体調不良や私生活の変化を理由に、平塚らいてうは青鞜社の編集・発行の権利を若き同人・伊藤野枝に譲った。伊藤は女性問題に対しより急進的な姿勢を見せたが、無政府主義者の大杉栄との恋愛事件などで世間の風当たりがさらに強くなった。資金難や同人の離反も重なった結果、1916年(大正5年)2月号をもって『青鞜』は無期休刊となり、青鞜社は事実上の解散を迎えた。
活動期間はわずか5年足らずであったが、青鞜社が日本の近代史に遺した足跡は計り知れない。大正デモクラシーという自由主義的な風潮の中で蒔かれた女性解放の種は、のちに平塚らいてうや市川房枝らによる新婦人協会(1920年結成)へと受け継がれ、具体的な女性の政治的権利獲得運動(婦人参政権運動)へと発展していくこととなる。