憲政会
【概説】
大正時代中期から昭和時代初期にかけて存在した日本の政党。1924年の第二次護憲運動の中心となって護憲三派内閣を組織し、普通選挙法の制定などを実現して「憲政の常道」と呼ばれる政党内閣時代の扉を開いた。
結成の背景と野党時代の苦難
憲政会は、1916(大正5)年に加藤高明を初代総裁として結成された政党である。その源流は、第三次桂太郎内閣期に桂が創設を企図し、その死後に加藤らが結成した立憲同志会にある。第二次大隈重信内閣の与党であった同志会が、中正会や公友倶楽部などの小会派と合同して成立した。結成当初から衆議院において多数を占めていたが、大隈の後継として加藤を推す声は元老に受け入れられず、寺内正毅内閣が成立したため、野党として出発することとなった。
その後、政党内閣の確立を掲げて活動したものの、最大のライバルである立憲政友会(原敬総裁など)が強固な地盤と巧みな政治指導によって政権を掌握し続けたため、憲政会は長期にわたって不遇の野党時代を過ごすことになった。
第二次護憲運動と第一党への躍進
憲政会にとって大きな転機となったのが、1924(大正13)年の第二次護憲運動である。前年に起きた虎ノ門事件の責任をとって山本権兵衛内閣が総辞職したのち、貴族院を中心とする超然内閣である清浦奎吾内閣が成立した。これに対し、政党政治の危機を抱いた憲政会は、高橋是清率いる立憲政友会、犬養毅率いる革新倶楽部とともに護憲三派を結成し、倒閣運動を展開した。
清浦内閣は衆議院を解散して対抗したが、同年5月の第15回衆議院議員総選挙において護憲三派は圧勝を収めた。中でも憲政会は151議席を獲得して第一党へと躍進し、清浦内閣は退陣に追い込まれた。これにより、第一党の党首が組閣するという原則に基づき、加藤高明を首相とする護憲三派連立内閣が誕生したのである。
加藤高明内閣の歴史的実績
加藤高明内閣は、大正デモクラシーの要求に応える形で数々の重要政策を実現した。最大の功績は、1925(大正14)年に成立した普通選挙法である。これにより、納税資格による制限が撤廃され、満25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた。しかし同時に、国体変革や私有財産制度否認の運動を取り締まるための治安維持法も制定され、「飴と鞭」の政策がとられた点も日本の近代史において極めて重要な意味を持つ。
また、外交面では幣原喜重郎外相による国際協調路線(幣原外交)が展開され、1925年には日ソ基本条約を結んでソビエト連邦との国交を樹立した。さらに軍部においては、宇垣一成陸相の下で4個師団を削減する宇垣軍縮を断行するなど、国内外において大正期の集大成ともいえるリベラルな改革を推進した。
憲政会の終焉と二大政党制への系譜
護憲三派の提携は政友会の分裂などにより長続きせず、後に憲政会の単独内閣となったが、1926(大正15)年1月に加藤高明が急死すると、内務大臣であった若槻礼次郎が後継総裁として首相に就任した。若槻内閣は加藤の路線を引き継いだものの、1927(昭和2)年に勃発した昭和金融恐慌の対応において、台湾銀行救済のための緊急勅令案を枢密院に否決され、総辞職を余儀なくされた。
若槻内閣の退陣後、政権は立憲政友会(田中義一内閣)へと移った。野党に転落した憲政会は、政界再編の機運が高まる中、政友本党(政友会から分裂した勢力)と合同し、1927年6月に立憲民政党を結成して発展的解消を遂げた。憲政会から民政党へと連なる系譜は、政友会と政権を交互に担当する「憲政の常道」と呼ばれる戦前日本の二大政党時代を築き上げる強力な基盤となったのである。