雑誌『文藝春秋』 (ぶんげいしゅんじゅう)
【概説】
1923(大正12)年に作家・菊池寛が創刊した総合雑誌。当初は文芸同人誌的な性格が強かったが、のちに社会・政治論評をも扱う総合雑誌へと発展し、知識人から大衆まで幅広い読者層を獲得した。現在も続く「芥川賞」「直木賞」の発表舞台であり、近代日本の出版文化と大衆化を象徴するメディアである。
菊池寛の企図と文壇への新風
大正デモクラシーの気運が社会を包む1923(大正12)年1月、作家の菊池寛が私費を投じて雑誌『文藝春秋』を創刊した。当時の文学界では、自然主義文学の退潮後に登場した新現実主義などの作家たちが活躍していたが、その発表の場は既得権益化した一部の商業誌に限られていた。菊池は、既存の『中央公論』や『改造』といった権威主義的な総合雑誌に対抗し、若手作家に安価で自由な発表の場を提供することを目指した。創刊号は定価10銭という破格の安さで発売され、芥川龍之介、久米正雄、さらには川端康成や横光利一など、当時の新進気鋭の作家たちがこぞって寄稿し、青年層を中心に熱狂的な支持を集めた。
関東大震災と総合雑誌への脱皮
創刊から半年余りが経過した1923年9月、関東大震災が首都圏を襲った。多くの出版社や印刷所が壊滅的な打撃を受ける中、『文藝春秋』は震災の混乱からいち早く立ち直り、被災地の生々しいルポルタージュや知識人の震災論を掲載した。この迅速な対応が読者の信頼を勝ち取り、部数を飛躍的に伸ばす決定的な契機となった。震災復興期を経て、日本の社会構造は都市化と大衆消費社会の形成へと向かう。これに伴い、同誌は単なる文芸誌の枠組みを越え、政治・経済・社会・風俗などを幅広く取り扱う「総合雑誌」へと変貌を遂げ、マス・メディアの先駆者としての地位を確立していった。
芥川・直木賞の創設と文学の「大衆化」
『文藝春秋』の歴史、ひいては日本近代文学史において最も画期的な出来事の一つが、1935(昭和10)年の芥川龍之介賞(芥川賞)および直木三十五賞(直木賞)の創設である。菊池寛は、若くして世を去った友人である純文学の芥川、大衆文学の直木を記念し、新進作家を育成・顕彰するための文学賞を立ち上げた。受賞作や選評が『文藝春秋』およびその姉妹誌に掲載されるシステムは、文学を一部の知識人層のものから一般大衆のものへと広げる「文学の大衆化」を決定づけた。昭和戦前期における言論統制の荒波や戦後の再出発を経つつも、同誌は常に日本の言論・文化の中心に位置し続け、独自の存在感を放ち続けている。